習作「米津玄師出演のPlayStationCMの計量映画学的分析」

 こんにちは。「遊び」で米津玄師のプレステCMを分析してみました。分析が甘いのですがせっかく書いたので載っけます。(にしても「POP SONG」良すぎんか???????? 早くCD出してくれ!!!!!!!!!!)

 

 

 本稿は北村匡平『24フレームの映画学;映像表現を解体する』(晃洋書房、2021)で示された計量映画学(シネメトリックス)的手法に基づき、2022年1月23日に公開されたSONYのプロモーション映像を分析し、「何が映されているのか」を明らかにすることを目的として書かれる。
 対象とする映像素材はSONY公式のYouTubeチャンネルの当該動画*1からの引用である。

 映像素材の情報は以下の通りである。

 尺:30.0s
 ショット数:30
 平均ショット長:1s

 分割したショットを簡単に分類したものが以下である*2

番号 ショット 登場人物 フレーミング アングル 持続時間(s)
1 ロゴ N/A N/A N/A 1
2 ヘレニズム的兵団 兵士たち ELS ハイ 1
3 兵団の局所 兵士たち LS 垂直 0.5
4 同上 兵士、兵士たち MCU 水平 0.8
5 兵団→仮想空間 兵士→米津玄師 LS 水平 2.1
6 仮想空間→兵団 米津玄師 CU 水平 1.3
7 兵団 兵士たち CU 水平 0.8
8 同上 米津玄師、兵士たち CU 水平 1.3
9 同上 同上 CU 水平 1
10 同上 米津玄師、兵長、兵士たち ELS ややハイ 1.2
11 同上 米津玄師、兵士たち MCU 水平 1.5
12 同上 米津玄師、兵長、兵士たち CU 水平 0.5
13 同上 同上 MS 水平 0.5
14 同上 同上 MCU 水平 0.5
15 同上 同上 MLS 水平 0.8
16 同上 米津玄師、兵士たち ELS 水平 0.9
17 同上 同上 ELS ハイ 0.6
18 同上 同上 CU 垂直 0.4
19 同上 同上 MCU 水平 0.3
20 同上 同上 ELS 水平 0.7
21 同上 同上 CU ややハイ 0.5
22 同上 同上 LS 水平 1
23 同上 同上 ELS ハイ 1.5
24 同上 米津玄師 MS ややロー 1
25 同上 米津玄師、兵長、兵士たち ELS ややハイ 1
26 コピー N/A N/A N/A 1.2
27 兵団 兵士たち CU 水平 0.8
28 外の世界、コピー 兵士たち ELS ハイ 2.7
29 ロゴ N/A N/A N/A 1.3
30 ロゴ N/A N/A N/A 1.5

 以上から、ほとんどが1秒以内のショットで構成される、非常にテンポの速いプロモーション・ビデオであることが明らかである。また、2.7秒と本作の中で特徴的に長いショットについては映像終盤のキャッチ・コピーの提示ショットである。プロモーションの使用上、最も重要である「PLAY HAS NO LIMITS」というコピーが最重要なショットとして扱われていることがわかる。

 では、次にそれぞれのショットごとに「何が映っているのか」について映像を構成順に検討していく。

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・第1ショット PlayStationのロゴ・マーク。 言うまでもなく、これから流れる映像がPlayStationブランドに属する何がしかの広告映像であることを示唆している。

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・第2ショット 時空間を表すエスタブリッシュ・ショット。 ヘレニズム的様式を持つ建築と広場で兵士が兵団を形作っていることが示される。

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・第3ショット 兵団の中の兵士の身体が突然震え出す。 その傍らには石を持つ兵士と、2人を囲む兵士たちが垂直に映される。

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・第4ショット 身体を震わせた兵士が突如身体を起こし、笑顔になると時代性のズレたハンド・サインを行う。

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・第5ショット 第4ショットの兵士がそのまま踊るようにして身を翻し、回転するとその身体は流体や光を思わせるアニメーションに包まれる。○×△□といったPlayStation(とそのコントローラー)を想起させる記号が氾濫し、兵士の身体が米津玄師のものへと変形していく。 キラキラとした電子音が「変身」を想起させる。 アニメーションを使い、回転する兵士→回転する米津がひとつづきのショットであるように映されている。

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・第6ショット 米津玄師の手と下半身のクロース・アップに切り替わり、アニメーションの終了と同時にカメラが米津のバスト・ショットを捉えるように上方へパン。手を交差させ、指を動かすハンド・サインをする。また、指先が緑色に塗られており、第5ショットのアニメーションを思わせる色合いとなっている。 「変身」音が止まると同時に本作のイメージ・ソングである米津玄師の「POP SONG」が始まる。

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・第7ショット 突如米津玄師へと「変身」したのを不審に思うかのようにして兵士たちが険しい顔でにじり寄る。 米津玄師からのPOVショットのようにも見える。

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・第8ショット 兵士たちの反応に対し、不満げに下唇を突き出す米津玄師。その後に見回すように目線を動かすと口元に笑みを浮かべる。

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・第9ショット 向けられた剣の鋒に目を寄らせ、舌を出す米津玄師。この剣は次のショットで兵長(兵士たちのなかで唯一赤いマントを着て特権的に見える存在)が握っていると明かされる。 剣という暴力性を滑稽な表情で異化している。

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・第10ショット にじり寄る米津玄師と後退する兵長。 周囲の兵団は米津玄師の歩調に合わせて横方向に移動し、米津が場を制圧していることが明らかになる。

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・第11ショット 兵長からのPOVショットか。 米津玄師が「POP SONG」の現在個所の歌詞とリップ・シンクしながら腕と身体をくねらせて踊るように詰め寄る。ミュージック・ビデオ的演出。 背後には盾を構えたまま依然として米津の歩調に合わせた兵団が距離を取りながら警戒している。

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・第12ショット 米津玄師と兵長の手が同時に振り下ろされる。兵長は剣を握っているが、米津の手はじゃんけんのパーを思わせる。 物質としての武器に対し、模倣した「遊び」であるじゃんけんで対応して兵長とその武器の意味を転倒させる。よって兵長の剣を握る拳がじゃんけんの「グー」であると解釈される。 ここで米津の指先が掌の側も塗られていることがわかる。 背後の兵士たちは武器を抱えたまま見ている。

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・第13ショット じゃんけんに勝利した米津玄師は突如指先を兵長の顔面に向ける。 兵長は直立するが、もう剣は握られていない。武装はしているものの、鎧と盾のみである。 背後の兵士は武装を続けるものの、警戒よりも観察するように立っている。

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・第14ショット 呆然とした顔の兵長に対し、米津玄師は向けた指を左方向に曲げる。釣られるように兵長が同じ方向に首を曲げる。あっち向いてホイが成立する。 兵士たちに目立つ動きはない。

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・第15ショット 勝利した米津玄師と敗北した兵長兵長は悔しがるように身をよじらし、米津は喜ぶように手のひらを握っている。そして直立して腕を水平に伸ばし、指をひらひらと動かしておどけて振る舞う。勝敗が決しても「遊び」では死は訪れない。 結果にどよめき、背後の兵士たちが槍を持ち上げるなどして動く。驚くような声が上がる。もはや兵士たちは米津玄師による「遊び」のただなかへと巻き込まれていっている。

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・第16ショット 場面が転換し、兵長の姿はない。 兵団のただなかで突如として2台の自転車を垂直に並べたようなものに乗る米津玄師とそれに警戒しながら寄る兵士たち。 車輪の大きさが前後で違う自転車は19世紀の自転車を思わせる。ここでもヘレニズムとは時代はズレている(同時に現代の自転車様式ともズレている)。 また、乗り物を2台重ねるのは映画『マッドマックス:怒りのデス・ロード』(2016)においてヴィランのイモータン・ジョーの愛車である「ギガ・ホース」(キャデラックを2台重ねにしたもの)を想起させる。

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・第17ショット 兵士たちが米津玄師を囲み、盾を突き出している。 並べられた盾を足場にして円運動する米津。 円の周囲の兵士には槍を構えて警戒しながら驚いて身を仰反るものもいる。 ここでも武器が別の意味として補足可能なものとして転倒されている。

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・第18ショット 部分的に光っている石のような物体が米津玄師の手に握られる。石はPlayStation5のコントローラーを想起させる形状である。 手の形状は第4ショットで兵士が行ったハンド・サインに酷似している。

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・第19ショット 第18ショットでの石が急に動き出したかのように米津玄師の身体を引っ張る。

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・第20ショット 壁に向かって直線で移動する米津玄師と追いかけようとする兵士たちの位置関係を示すエスタブリッシュ・ショット。

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・第21ショット 滑るようにして移動する米津玄師の足を掴みかかろうとする兵士だが、その手は届かない。 ここで米津の靴がヒールがついて女性的なニュアンスを持つものだと明らかになる。

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・第22ショット 依然として移動を続ける米津玄師と、足を掴んだ兵士たち。米津は減速することなく、得意げに腕を広げ、再び音楽と同調したように口を動かしていて、ミュージック・ビデオ的である。 背後の兵士たちは全速力で走っているように見え、米津の移動速度の速さが伺える。

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・第23ショット 米津玄師が壁に到達すると、到達した部位の周囲から土埃のようなものが上がる。 相当上方からのハイ・アングルであり、場内の巨大さが明示されている。 兵士たちはなお米津を追って走る。

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・第24ショット 米津玄師が到着した壁は鋲が打たれた金属質なものである。米津が少し触れて振り向くと壁の該当箇所は扉であるとわかり、ゆっくりと背後に倒れ込んでいく。

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・第25ショット 米津玄師が扉の落下に同調するように手を垂直に広げながら腰を屈める。 兵士たちは戸惑うように周囲を見上げている。

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・第26ショット 黒字に白い書体でキャッチ・コピーが提示される。 「遊びのない世界なんて。」と書かれ、「遊び」が必要であることが語られる。

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・第27ショット 兵士たちの腕が上げられており、ある兵士が同じく腕を振り上げるとPlayStation5のコントローラー(DualSense)が握られている。

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・第28ショット 兵士たちがいたであろう城内が巨大な壁に囲まれ、実は周囲に多様な世界が広がっていることが明らかになる*3。そこにはファンタジー的なドラゴンや船、SF的な宇宙船のようなモチーフたちが闊歩しており、兵士たちは「外の世界」に進んでいく。 のちに画面に「PLAY HAS NO LIMITS」というコピーが提示され、城という限界の外に限りない多様な世界があることが明示される。

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・第29ショット 「プレイステーション」というナレーションともに△○□の記号にPlayStationのロゴが重ねられる。 第1ショットと挟むことで、以上の映像がPlayStationブランドのものであると明示している。

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・第30ショット SONYのロゴが表示され、以上がSONYによる映像であったと明示される。

 以上から、本作は「ヘレニズム様式の城内と兵団のただなかに、異質な格好をした米津玄師が登場し、兵士を次々と意味転倒させ、多様な外部への扉を開いていく」という構造を持っていることがわかる。
 外部世界への扉を開く米津玄師は、さながらゲーム(=遊び=PlayStation5)を体現したかのような存在として振る舞う。対して兵士は武具を通して命のやり取りをする存在であり、ゲームとは対照的である。命をかけていた剣や盾の意味が次々に転倒されていき、兵士たちはやがて世界が「閉じていた」ことを知る。世界はもっと「遊び」に満ちていることが明示され、視聴者に「ゲームを通して多様な世界を遊ぼう」というようなメッセージが届けられるであろう。
 ここで米津玄師が演じるのはトリック・スターとして、意味を撹乱する役割である。米津玄師の格好は道化のようであり、第16ショットで登場する自転車のように周囲の兵士たちとは時代が異なる「異様な」質感を伴った存在として感じられる。よって兵士たちは困惑し、視聴者もまた「異物」としての米津玄師を認識する。ここの米津玄師の異物感は現実の、我々が認知する米津玄師に対してもつ異物感と対応関係にあると言って良い。
 米津玄師はそもそも「ハチ」名義でVOCALOIDを使用した楽曲群をニコニコ動画で発表し続けてきた、いわゆる「ネット発」のミュージシャンである。いわば亜流からメイン・ストリームへ躍り出てきた存在であり、現役(引退を表明していない)ボカロP*4としては初めてNHK紅白歌合戦に出場したことを思い出しても良い。米津玄師はそもそもがトリック・スター的な存在として我々に認識されており、その性質が作中ないの米津玄師に仮託されているのである。
 米津玄師のトリック・スター性は第21ショットで米津玄師がヒールのついた、やや女性的なニュアンスの靴を履いていることからもわかる。男性である米津玄師がジェンダー固定性を転倒させるような振る舞いをすることで、やはりここでも米津が意味を撹乱する存在として描かれている。また、ミュージシャンとしての米津玄師のファンには、ここで彼の2018年の楽曲「Lemon」のミュージック・ビデオが思い起こされる。そこでも彼はハイヒールを着用しているのである。加えて言えば、この靴が明示されているショットで米津玄師は非人間的な動き(兵士よりもはるかに早く等速直線運動をする)をしている。それもまた、この場面における異質さを物語る。また、「靴」は従来から重要なモチーフとして表象される。『オズの魔法使い』においては魔法の靴のかかと(ヒール)を打ち鳴らすことによって、ドロシーはカンザスへ帰ることができる物体であり、それもまた「外部と接続する」ものであった。『シンデレラ』においては魔女から渡され、落としたガラスの靴がシンデレラをハッピー・エンドへと導く。本作では、異様な速度の米津玄師と地面の接点、またジェンダー転倒性の表象として「靴」が提示されているのである。

 また、何度も登場するモチーフがコントローラー(DualSense)である。第3ショットで身体を揺らし、のちに米津玄師へと「変身」する兵士の傍らには第18ショットで再掲される石的なコントローラーを持った兵士がいる。コントローラーというコンシューマー・ゲームのある種の象徴*5によって世界に「異質=米津玄師」が持ち込まれる。仮にここでコントローラーを持つ兵士が「操作者=プレイヤー」だとしても良いだろう。その操作によってキャラが「変身」し、外部接続性を保つ「プレイアブル・キャラクター」であるところの米津玄師が登場する。やがてそのキャラクターは第19ショットに至るとコントローラーに導かれるようにして扉を開く。古代を思わせる石=コントローラーは扉が開けられるとやがてDualSenseに変貌し、現代性を伴って兵士の手に握られる。世界が開いていることはPlayStationが存在することと同義なのかもしれない。
 ここまで見たきたように、本作はPlayStationブランドの広告として、「遊び」の重要性と、「遊び」に満ちた外部への接続可能性をPlayStationが担うということを、米津玄師の異質性、トリック・スター性に仮託して表現されたものであると分かった。そしてその表現において重要視されるのが「従来の、固定された意味の転倒」であろう。剣による暴力が、米津玄師のトリック・スター的な身体を通して「(米津玄師、また彼を通した「プレイヤー」によって)遊」ばれ、世界は驚きに満ちたものに開かれていく。その為の米津玄師なのである。

 

本分析を通して発見できたことは少なくないが、筆者の力量不足により多くの点を見逃しているであろう。本稿は習作として書かれたものであり、本稿の試みがあまり上手くいったものとは言えない。筆者としては、より精緻で意義深い分析や検討を待ちたい。

 

 

 

 ということで、書きました。ご意見などあればTwitterででもコメントででも良いので書いてくださるとありがたいです。本文中にも書きましたが、あくまで北村匡平の本に感化され(『24フレームの映画学』は非常に素晴らしい本なのでみんな読んでください)、見ようみまねでやってみようというものです。あまりショットごとに分けた成果が出ている感じがないですが、まあこういうのを重ねてなんとか能力向上に努めたいなとうっすら思っています。誰も読まないかもしれないけど、インターネットの海に放り投げることでなんとかしたいという思いが強い。

 それでは、読んでいただいた方がいたら大変嬉しいです。ありがとうございました。

*1:参考URL;https://www.youtube.com/watch?v=xhOobsomWnI(最終閲覧日:2022年1月24日)

*2:表中の略語は以下の通り。超ロングショット=ELS/ロングショット=LS/ミディアム・ロング・ショット=MLS/ミディアム・ショット=MS/ミディアム・クロース・アップ=MCU/クロース・アップ=CU

*3:ここでは閉じた系、閉塞感として諫山創進撃の巨人』や冨樫義博『HUNTER × HUNTER』を思わせる

*4:VOCALOIDを用いて音楽を制作・発表するひとのこと。

*5:PCゲームではキーボードによる操作が主流となっており、このようなコントローラーはPlayStationなどの家庭用ゲーム専用機と強く結び付けられた存在である

文章を書くことは好きですか

 ある時期まで、自分は文章を書くのが得意だ、と思っていた。その時期の終わりに、自分は別に得意でもなんでもなかったんだなと気づいて、文章を書くのが好きと自認し直した。でも別に今はそうも思えない。提出しなきゃいけない文章は遅々として進まず、メールの返信やシフトの提出LINEも億劫だ。まあ、普遍的に文章ならなんでも書くのが大好きという奇特な人間以外、「嫌な文章は嫌」だろう(ところが読む、という方になるとだいたいなんでも読むのが好きというひとが少なくなさそうで面白い)。

 

 ぼくは書くことが好きというより、書くことが上手く進んでいるときだけ、手が止まらないで脳がページにレンダリングされているその瞬間のみにある刹那的な陶酔が好きなんだと思う。脳や手がドライブされていく感覚。それだけが好きで、べつに文章を書くことそれ自体とか、ものを考えることは得意でも好きでもないんだと思う。書き進んでいるときの、文字を入力して、文字が書かれ、そしてその次の文字が紡がれる、その間の、字と字の間隔にあるトリップ。

 読書もそうで、上手く脳にハマり込んだときの脳がぎゅうう、となる感じが好きで、それ以外ずっと億劫だと思っている。本が好きだと思っていたのも、昔の話になってしまった。

 

 ぼくが文章を書くのが得意だと勘違いしたのは高校の推薦入試を受けたときで、小論文がほとんど満点に近い出来で入学が決まった。偏差値からするとちょっと上の場所だったから、ぼくはそのときからずっと「場違い感」を思い続けているのかもしれない。年季が入っている。

 

 とどのつまり、ぼくは文章が下手だ。そう開き直るしかない。このエントリーの構成もめちゃくちゃで、読書の話とかいらなかったのかもしれない。でもどこかで、ぼくは書かずにはいられないとも思ってしまう。一度書き出すとこのくらい長くなる。いま800文字にいかないくらいだ。Twitterでは短すぎる。脳が動いている。気持ちいい。ずっとこの快楽が続けばいいと思う。でもいつか脳が止まる。書くことがなくなる。こうやって思考をずっと書き留められればいいのに。ではそれが終わったら? 手が止まったら? 思考が終わるのだろうか。そのときぼくは何も考えていないのだろうか。

 回遊魚みたいに書かずにはいられないくせに、でも億劫だし下手なのだ。少しずつ上手くなりたいものです。何者にもなれないだろうぼくの、ちょっとした願いです。

8/31

 幸福ということがほとほとわからない感覚が訪れている。

 別に大きな意味での幸せとかそういうのではなく。

 

 前はとても孤独感を感じていて、それが解消されるときになんとか精神が保てていたが、今は誰から連絡がきても「ふーん」という気持ちになる。以前ならば一瞬で返信したであろうことでも、いまは少し置きたくなっている。

 

 細々と心中を吐露していたTwitterのあるアカウントで、8月の投稿をすべて消した。インターネットにおける、ある一区画のぼくに8月は来なかったということにならないだろうか。小規模な自殺。

「もし本当に死んでしまうときが来たら、悲しいから事前に関係を絶ってほしい」というようなことを言われたことを思い出した。本当にいなくなる前に、存在しなかったことになれと。なんだか楔になっている。死さえ認知されない。

 

 ゆるやかに死んでいきたいという思いを少しだけ込めてダイエットを続けている。

 

 生きている意味がない。とよくあることを少し考えた。

 映画を観ても音楽を聴いても、その渦中しか喜びがなく、終わるとすぐに名の知れない悲しみに包まれてしまう。

 ぼくはあまり優秀ではないので何も為すことができないだろうし、世界にとってなんらかの「生きている意味」があろうか。まあ、親類にとってはそりゃあるだろうが。直近ではバイトに穴が空いちゃうくらいしか思い浮かばない。

 

 自分にとって深刻だと思っているこの空気ですら、きっといいことがあれば忘れてしまう。気分のむらに過ぎないのかしら。

 いま死んでしまうと「コロナ禍における閉塞感」みたいなものとして認識される気がして悔しいのでまだ死ねないとも思う。完全にブームが去ってからタビブーツ買いたいみたいな。

 

 夏が終わると言っているひとがいた。8月が終わるだけで、別に暑さは続くだろうし、暦としてはもう夏は終わっているのではないか。ぼくは秋が好きなので、今年は秋があるといいなと思う。

 秋や冬が好きだから、秋や冬に死にたいと思う。自然死のときですら。しかも、寒くなると気持ちも塞ぎ込むのでちょうど良さそうだ。

 

 こういう感覚も、しばらくするとなくなってしまうのかもしれない。また能天気に笑う瞬間がきて、同じように落ち込むときがくるのだろう。疲れてしまった。

雑記20210725

 心が暗いもので覆われている。

 まあ、そんなことは日常茶飯事、どころか数秒ごとに躁鬱を繰り返しているぼくにとっては通常運転なんだけども。

 しかし時として言語化できない、したくない鈍重な思いが現れて精神を縛り付けてくる。束縛の、仮象の縄目はいつしか実在する縄へとぼくを志向させていく。

 

 ううん。こういう書き方も嫌になる。簡単に言えば気分が下がって仕方ない。どんどん死にたくなってくるというだけなんだけど。

 最近、というか今年に入ってから個人的に千葉雅也がキていて、『勉強の哲学』を読んでから『デッドライン』を読み、芥川賞候補記念に『オーバーヒート』を読み、そして『アメリカ紀行』も読んだ。一貫してある「複雑性を大事にする」問題意識は、ぼくが前から影響を受けている高橋ヨシキ陰謀論について語るときに言っていたことと重なり、どちらも非常に賛同する。曰く「陰謀論は「世界を理解したい」という欲望に基づいている」。これは世界を単一な陰謀という単一化のもとにおいて、「理解する」ということで、千葉の問題意識もまたこれに抗う。千葉はリベラル的な運動が単一化の論理によって小異が削り取られていく危機感について語る。マジョリティに包摂されるくらいなら異常でよい、と自身のセクシュアリティから語る。個人的にポリティカル・コレクトネス(PC)は重要であると思うが、それはあまりにも酷い現実が多すぎるからであって、本来なら千葉の言うようにPCの「正しさ」が先行する思考なんてむしろ拒絶すべきなんだと思う。それは結局、(無事批判された)無印の「ジェンダーレス」衣服のような、公正さ先行の非多様なものの氾濫を許してしまう。ぼくが反対したいのは押し付けであって「らしさ」の廃絶ではない。

 

 何も考えずにここまで書いた。最近文章をTwitterでしか書いていなかったから。千葉や宮台真司についてちょっと書いたら、それぞれご本人からRTされて、次いでそこそこの反応をもらった。そこで少し高揚する自分を見つけて疎ましく思う。そういう積み重ねで何もかも嫌になっていくのかもしれない。

 

 『竜とそばかすの姫』を観て、相変わらずだめだな、と思った。昔ブログに『サマーウォーズ』の批判をつらつらと書いたが、そんな感じ。もう当該エントリーは消したと思うけど。ぼくと細田守は徹底して合わないらしい。新海誠も『言の葉の庭』で初めて観たときに「なんて酷いんだ」と思ったけど、『君の名は。』『天気の子』と個人的に結構好きなので細田守ともいつか波長が合うといいなと、少しだけ思う。

 

 ジル・ドゥルーズの『アベセデール』のDVDを買ってから数ヵ月、このままじゃタンスの肥やしになり続けると意を決してアルファベごとの短い動画にすることにした。しかし、自分で買ったDVDをコピーできないなんてことがいつまでまかり通っているんだろう、と暗い気持ちになる。そりゃコピーの流出は重大な問題なんだろうけど、もうちょっとなんとかならないものか。結局、その気になればいくらでも複製されるのだから。「技術的保護手段の回避」そのものを刑事罰の対象にするのに何の意味があるんだろう。それが一体誰の権利を脅かすというんだろうか。そこで脅かされているのはむしろ消費者の権利な気がしている。無断アップロードとかそういうのが金銭的な被害をもたらしているというのに。結果ストリーミングに全てかっさらわれ、巨大資本の殴り合いになってしまって悲しいね。

 

 世の中の動きを見ているととても辛い気持ちになる。多様な価値観があって社会は成立しているんだとわざわざ自分に言い聞かせなければならないくらいにヘンテコな言説がまかり通っていて、「文句を言うやつより楽しんだ方がいい」みたいなことを平気で言えるひとたちが多い。そういう面も否定しないけど、それが何をもたらしたのかということ。ぼくだって十分にできているわけはないけれど、構造的な問題について考えるひとが少なすぎる。何も期待しないでおこうと思う。

 

 自分がどんどん何もできなくなるのを感じている。もう、ちゃんと映画を観ていない。小説も読めなければマンガも読めない。音楽もずっと同じのばかり聴いている。ぼくの好きなものってなんなんだろう。一周回って自分探しのターンに突入しているのかもしれない。旅に出る気はないが。小説を書きたいとか色んな「したい」ばかりで「する」にならない。

 

 ここのブログタイトル、今は「第弐思考統制管理塔(仮)」なんだけども、マジでダサいのではやく変えたい。まず第一(壱)があるわけでもないし、伊藤計劃とか、弐瓶勉的なニュアンスを出したかっただけなのだろう。どちらのちゃんとした読者でもないってのがまた自分の嫌さが出ている。ああ、最悪だ。

カウントダウン

 24歳になった。

 実感はない。というより今日が誕生日なのを忘れていた。

 正確に言うと、数日前から「土曜が誕生日だな」という意識自体はあって、よさげな肉とかケーキとかを準備していたのだけど、昨日の夜にはそんなことすっかり忘れていたし気がついたら床で寝ていた。

 24歳のぼくは、とりあえず大学院に進学したはいいものの、あいかわらず何もできないでいる。専攻で自分がいちばん出来が悪いんだろうなという確信と、何なら学部生よりも能力が低いんだろうという予期が交互に頭を占拠している今。大学院に「偏差値」なんて概念を持ち込むことの是非はあるけど、ぼくの出身学部は、今の大学院よりも数段偏差値の低い場所だったし(出身学科の偏差値として1番低く出ているものと、所属している専攻が接続している学科の偏差値を調べてみたら15くらい差があった)。学部の教育を受けて、さすがにコンプレックスのようなものはないけれど、それでも不安は晴れない。

 

 米津玄師は24歳になる年に『Bremen』を出してるし、常田大希は『http://』を出してる。東浩紀は「批評空間」に連載を持っていたし、冨樫義博は『幽☆遊☆白書』を連載し始め、庵野秀明ナウシカに参加していた。24歳というのはそういう年齢なんだ。

 各界のトップ・プロを羅列して自己卑下する傲慢さをもっているから、ぼくはずっと苦しいんだと思うけど、何もしないで辛さに喘ぐのは、何かして自分の無能力を自覚したくないからなんだろうな。手を動かさずに恨言を吐き散らすしかできないので。

 このままゆるやかに死んでいくだけなので、どうか許してほしい。

ゴール

 今まさに自殺を試みているひとの気持ちを考えてみた。

 きっと苦しいだろう。怖いだろう。そこでやめてしまえば、その痛みからはひとまず解放されるんだろう。

 でも、続けるひともいる。中断できないような準備をしていたとか、中断できない方法を採ったわけでもないのに、続けるひとはいるだろう。その人の頭の中にはなにが渦巻いているんだろう。

 ぼくの浅薄な想像力では、「あと少し」ではないかなという発想しかできなかった。

 あと少し、この辛さを耐えれば、意識がなくなるまで、あと少しで終われる。

 そんな風に、自分を励ましながら、これが最後の頑張りどころだと、これだけ頑張れば終われるんだと意思を傾けるんじゃないか。

 そう思った。

コンクリート

 世界の形がぐちゃぐちゃになってきた気がした。そんな気がしていただけで、本当は世界が定型だったことなんか初めからなくて、信じられるものを求めたい弱さが見せていた影だったんだと理性が叫んでる。

 大きな物語が失われていくのって、こんな感じなんだろうかと想像してみる。

 ぼくの生まれた90年代後半はすでにイデオロギーとかそういう、信じるに足るものが喪失したあとの時代だって触れ込みのようだ。その時代に生まれたぼくは、その時代を知らない。自意識なんかなかったから。

 大きな物語がなくなった世界で、信じられるものを失った世界で、それでもぼくはぼくなりに「世界」という言葉で区切られた塊を見ていた。でもその内部にあるぐちゃぐちゃとした粘性の、不透明な、そして陰湿に流れるものたちが奔流して弾けて、いつしかぐにゃぐにゃとした不定形の塊になっていった。信じられるものはないし、求めるべきでもない。いつまでも涙をこぼしてみることしかできない。