解像度たかいたかーい

 馬田隆明解像度を上げる:曖昧な思考を明晰にする「深さ・広さ・構造・時間」の4視点と行動法』(英治出版、2022)という本の存在を知った。

 中身は読んでいないのだけれど(ごめん)、ひと目見た瞬間に「わあくだらねえ」と思ってしまった。でもそれ以上に、「解像度を上げる」「解像度が高い」とフランクに使われている状況が面白いなあとも思った。なんなんだ解像度って。ちょっと考えたい。

 

 当然、インターネットのすみっこにいると*1、「解像度」の新用法はよく見かける。例えばある作品やキャラクターのカップリングについての解釈が他のひとのそれよりも精緻であったりするとき、「解釈の解像度が高い」と言ったりする。最近では米津玄師の歌詞は「解像度が高い」と言われるし、米津玄師の解像度の高さを「高解像」で語るツイートがバズったりしているのもちょいちょい見かける。

 ここで言われる「解像度」はきっと従来は「見識が深い」とか「面白い視点」とか、「造詣が深い」とか、そんな表現をされてきたものなのだろう。「解像度」はもちろん、ディスプレイにおける画面解像度、すなわちピクセルの数が念頭に置かれていて、モニターなんかに詳しくないひとでもYouTubeとかで日常的に見かける概念なんだろう。一般的に720p以上であればHD(High Definition=高解像度)であるとされていて、4Gネットワークとか、外で動画を見るときなんかは自動で240pだとかでネットワークの使用を抑えたりする。その、低解像時のノイズの多いさまと、高解像時のすべてが見通せるさまを「解像度が高い見方(≒アイデア、解釈、etc...)」と言っているのだろう。

 ここで違う線を導入したい。美術史家の松下哲也が提唱した「シコリティ」*2だ。松下はここで、近年の映像表現に用いられる画面のノイズだとか色収差、ピンボケが従来の美学的二項対立概念の中間に位置する「シコリティ」と呼びうる新しい概念だと指摘している。とてもざっくり言うと、新海誠のアニメで使われているようなフレアだとか、本来のカメラ的には避けるべき要素とされてきたはずが、現在では「エモい」表現として感じられていることを理論化する試みだ。ぼくはこれにかなり賛同していて、つまり品質が保たれる(=一回性のない)デジタルデータだからこそ、ボケだとかフレアだとかがうつくしい、エモいものとして復権しているのだなと考えている。

 ではここで「シコリティ」の高いものをとりあえず出しておこう。

『天気の子』におけるフレア。ぼくの自宅から徒歩2分くらいのとこです。

 また、YouTubeにて公開され、ミーム的、二次創作的に増殖しているホラー映像群「バックルーム」もまたノイズが多く「低解像度」であることで恐怖の異形が存在す地にノスタルジックな効果を与えている。それ以外にも、写ルンですやチェキ、ポロライドカメラ風にする画像加工がアプリによって提供されていたりするのも、わざとノイズを乗せて「エモく」する行為の需要を示している。

www.youtube.com

 さて、ここで「シコリティ」の話を持ち出したのはもちろん、これが「高解像」と対立する概念ではないかと睨んでいるからだ。ぼくたちは果たして高解像でありたいのか、はたまた低解像でありたいのか。

 低解像であることは「(作品の物理的な)崩落」*3を予期させ、鑑賞者にフェティッシュを抱かせる。このように、現在ぼくたちが目にする作品は、デジタルデータであるがゆえにそこにエモくて感傷的なフェティッシュが盛り込まれているのだ。そこにぼくたちは「シコリティ」を読み取っている。作品鑑賞において、ぼくたちは低解像度なものを好みがちであるようだ。

 ではなぜここまでシコい、つまり低解像のものに惹かれる一方で「高解像」でありたい欲求が出てくるのだろうか。ここで、「曖昧さへの畏れ」ではないかと考えたい。

 ぼくたちは曖昧なものを嫌う、ようだ。これは昨今言われている「倍速視聴」だとか「作品解説」「考察」だとかすべてに共通するんじゃなかろうか。もちろん、考察ってするひとは考えるのが楽しいからなんだろうけども、最近では作品名でYouTube検索などするとすぐに「考察」「解説」が乱立する。それは作品を鑑賞し終わって「なんだったんだ……?」となる時間がきっと気持ち悪いからだろう。そして、作品の理解を高めたい、作品に対して「高解像」でありたいのだ。そしてそれは「オタクでありたい(=詳しくありたい)」欲望と結びつき、別の側面として倍速視聴を産んだのではないだろうか。しかし、ぼくたちは曖昧さの残る、つまり必ずしも明晰でない、シコい表現を好む。それは『ミッドサマー』の流行もそうだろう*4

 つまり、「高解像」と「低解像」は表裏一体をなしているのだ。ぼくらはシコい、曖昧さのある作品を好む一方で、それが「低解像」なままに自身のなかで置いておけないのだ。新海誠的な、単に画面の、映像技法としてのシコリティは「エモい」と明晰化して取り込めるのだろうけど、物語や総体としての作品に組み込まれた、理解を妨げるノイズはそうはいかない。

 さて、ここで冒頭に挙げた書籍が「くだらねー」と感じた理由を書いておきたい。千葉雅也『現代思想入門』(講談社、2022)の「序文」では、"複雑なことを単純化しないで考え"ること、秩序立てて「明晰に」物事を整理していくシステムではないシステムの重要性が語られる*5。だからこそ何でもかんでも「明晰に」したい、HD=Hight Definition(高解像度、強い「定義」)への渇望はくだらないなあと思ってしまう。例えばデヴィッド・リンチの映画を観て、すぐさま解説動画を探すのは、それはもう曖昧さへの不安が強すぎるわけで。つって、ぼくもまあ「わかんねー!」って調べたくなっちゃうんだけどね。自戒として*6

 結論としては、なんでもかんでも「解像度高くしよう」だなんて思わなくていいんじゃないの、ってことに過ぎないのだけれども、それはTwitterでもなんでも、どんな話題にも「なんか言おう」みたいな意識があるのとも通底しているのだろうな。

*1: 最近では「インターネット」という言葉の使われ方も気になるがそれは別で

*2:松下哲也「Vaporwaveと「シコリティ」の美学」『ユリイカ 詩と批評:特集=Vaporwave』(青土社、2019)

*3:松下は美術批評家・峯村敏明の「崩落」概念を援用している

*4:たとえばWebライターのダ・ヴィンチ・恐山はミッドサマーの気の利いた感想はもう出ないという漫画を描いている。

note.com

*5:と言って読み返していたら千葉も"高い「解像度」"と言っていて笑った。

*6:自戒と言っておけばなんでもかんでも放言してよい風潮に乗っかっていきたい。

夏至・東京都三鷹市

「女の腐ったような奴だね、ほんと」
 彼女の口から発されたそれが別れの言葉だとはすぐに理解したが、悲しみや悔しさよりもまず「なんて前時代的なんだろう」と思った自分を、どこか遠くから見つめていた気がした。まさか元号が変わってなおそんな女性蔑視に基づく表現が、そして自分の同世代の女性から突きつけられるとはなあとぼんやりと思う。ーー単なる指示語としてではないなら「元」の頭辞が今まさに付くことになったろうーー彼女が目の前から立ち消えても、ぼくはどこか他人事としてしかその場にいなかった。こうやって自分を客観視するのもひとつの防衛規制なのだろうか最近フロイトの入門書なんか読むからそんな単語で説明しようとするのだしかし読んでいなくてもこのように俯瞰して考えざるを得なかったのだろうなにしろぼくはいまとてもショックを受けており明日からどうやって孤独に耐えればよいのかと疑問符が脳内を駆け巡るがぼくは単に彼女を孤独を慰めるためだけの存在と思っていたのだろうかいや違うはずだったし本当はもっとなにか尊い関係を作りたかったのではないのかとこうやって思考が連鎖し展開するのはそうかこれがジョイスの「意識の流れ」と言うやつかこれが小説ならば句点なく文章が続いているのだろうがそれすら前世紀の真似事にすぎないわけでこのように目の前にあるカップのコーヒーからたつ湯気がおさまらぬうちにこんなにも思考が連綿と著されるならばなるほど時間を文章に組み込むとは如何にーーこんなのわざとだ。もうやめよう。
 ずっと海外旅行をしている気分だった。どうしようもなく現実なのに、どこか夢のように虚ろだ。こうやってネチネチと厭世を称揚しているから、あんな捨て台詞を言われたのだろう。その言葉自体がポリティカルにコレクトかどうかはさして問題ではないはずだ。ぼくと少なくない時間の、人生を交差させた人間が、ひとことにすべてを凝集した結果があの文章だったわけで、それは尊重されねばならない。だからこそ、ひどく疲れた。
 ぼくの、ただよく動くだけの、贅肉だらけの脳髄は、鋭い言語化なんてできずに無駄な語句ばかり吐き散らす。なにか本当にいいたいひとことの周囲で漂うばかりだ。センスの欠如で、ぼくの怠惰ゆえのものだ。こんなときに、この悲嘆のために誂える言語をぼくは持たない。この貧しさ。
 逃げるようにスマホをつける。Twitterのフォロワーがひとり減っていることに気がついた。ふと思い立った。親指を下側に押し込み、離す。もう一度、そして離す。タップ、離す。……。離す。
 コーヒーはとっくに冷めていた。

「玲瓏」

 れいろう、という言葉を初めて目にしたときの感情は単純だった。きれいだなと思ったのだった。字面だけでは読めなくて、調べたら「玉などが透き通っているさま」だとか、「金属や玉がぶつかって冴えた音で鳴るさま」「音声が澄んで響くさま」と出ていて、意味まできれいなんだなと少し羨ましく思えた。
 名は体を表すとはよく言ったもので、「れいろう」という音と書いた字から受ける涼しげな味わいを、「玲瓏」は一身に背負っている。
 らりるれろ、には澄んだイメージがある。りん、と鳴ったらそれはまさに音が玲瓏としているようだ。風鈴が鳴るの如く。

 

 


 寒い日だった。あなたを強烈に意識した初めての日に、よく通る声で呼びかけてきたことをよく覚えている。冬の雨が上がり、雨雲が引いていくペトリコールの香りが鼻腔をくすぐる午後だった。なんて言われて足を止めたかもう覚えていないけれど、あなたの寒さで紅潮した頬を、華奢な体躯を、冬なのにロングソックスだけで耐える拙い自意識を今もありありと思い出せる。この不純物の少ない空気だったら、どこまでも響くその声でいくつかの話題を差し出したあなたに、きっと最初から惹かれていたのでしょう。
 人づてに聞いた。あなたが受験勉強をする理由のひとつに、都会に行くのだという意識があるのだと。そしてその「都会」には、ふたつ上のある他人の影があるということ。
 ああ、まさしく。あなたはどこまでも透徹で、私が掴むことはできないのだな。私に「勉強を教えて」と言ったあの冷えた午後と、合格通知を光る笑顔で私に見せる今日の午後のあなたはきっと同じで、あなたから発せられるとても美しく輝く澄んだ音色は、私とぶつかって遠くに離れていく、玲瓏なそれなのだった。

重い話をしてしまった!

 今日はかなりダメな日、と思った。精神がぶらんぶらんだ。

 しかも理由はかなりはっきりしていて、それが自覚できてるからこそ、その理由のダサさでよりしょげてしまう。理由は複合的なもので、自分で対処できるものとできないものがあり、しかしできないものの方が強度が高いせいでどうにかできる方が意識のなかでマスクされるし、結果として身体が動かなくなるしで、何もできない。こういうときってどうすればいいんだろうね。誰か教えてください。

 

 理由は「不安」に属するもので、ぼくは「まだ起こっていないことをあれこれ心配しても仕方がない」と努めて意識しようとしているのだけれど、それは自分が本来的にあれこれ心配してしまう性分だからだ。それで、今回は「自分は知り得ないけども起こったかもしれないこと」とかの、杞憂とか呼ばれるタイプの不安で、ぼくがどうこうできることではない(「杞憂」は「まだ来てないこと」についての不安だろうが、そのことは置いておく)。というか、実際ぼくの精神如何でどうとでもはねつけられるタイプのことなので心が弱いのが悪い。

 ふて寝していればそれでいいのかもしれないけれども、しかしふて寝して事態がいい方向に向かうわけでもないのであり、こればっかりは平気になるまでなんとか穏当に過ごす、とやるほかないのだろう。

 

 あまりこういう心持ちのときに考えない方がいいことなのは百も承知なんだけども、自ら死を選ぶひとのことを考える。そういう報道を目にすると、「本人はどう思ったのだろう」と考えてしまう。かわいそうだとか、もったいないだとか、死から遠いひとならば言うのかもしれないけれど、希死念慮のあるひとならあまりそういうことは言わないのではないか。

 サブカル的な言葉遣いとしてある「死は救済」みたいに言いたくはない。しかし死を選んだひとにとって、少なくとも死は現状よりは上だったはずだ。今よりも死んだ方がマシ、なのだから。勿論、自罰的に命を絶つひともいるかもしれないけれども、それは別カテゴリなので……。いまのぼくはなんとなく「違う日になったら死の方が下になることもある」と予測できる状況にあるから本当に死んでしまおうとかは思わないけれど、でも「明日も明後日も来年も、死よりマシな日なんかほとんどこないだろう」と確信を持ってしまったら、それが事実だろうがそうでなかろうが、本人にとってそれが真実となってしまったら、やはり選択肢として現実味を帯びるのかもしれない。ぼくだってこう言っているが、心がダメな理由が複数重なって、それがどうも立ち行かなくなったらかなり接近してしまうと思う。今でこそ「ハンターハンターが再開されるまでは死ねん」とか「米津玄師のライブに行かなきゃだし」とか思っているけど、「そんなことよりこの状況は耐えられないのだ」となってしまう日があるかもしれない。度胸はないから、近くはないのだけれど、でも決して遠い選択だとも思ってない。なんなら「これがあるから死ねない」がゼロになったらどうしようと思ってしまう。こわいよー。

 だから、誰かが自ら命を絶ったという報道を見ると同情的にはなるが、本人の選択が誤りだというようなことは思えない。「もったいない」だとか「生きていればいいことも」とか、そういう言葉がリアリティを持たない。本人の最期の瞬間が安らかであればいいなとひたすら思うばかり。そして、その度胸や勇気に感服してしまう。

 だからと言って死は悲しいものだし、周りのひとが死んでしまったらとても最悪な気分になるだろうから、可能な限りやめてほしい。全然推奨しない。ぼくにできることはなんでもするので、生きててくれと思ってしまう。ここまで読むとなんて自分勝手なんだろうと思うけど、そのひとにとって死よりもマシな今日を作ってあげられたらいいなと思う。

 

 精神が終わっている割には、人類愛に話が帰着してしまいました。ぼくは人間が好きなんですよ。社会は嫌いだけど(ここで言う「社会」は「社会人」だとか「社会に出る」と言われるときの専らビジネスによって構築されるのみの価値体系の、社会)。

 なんとかサバイブできるといいな。寝てお菓子食べて寝ましょう。

だだちゃ豆

 「殿様のだだちゃ豆」というお菓子を食べた。

 山形に行ったとき勧められて買ったのだけど、まるでどんな味なのか想像がつかずに食べた。

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 「めっちゃずんだだ!」と思った。少し前に仙台に行ったときにずんだもち食べたのと、その前に思いついてずんだを自作したので余計にそう感じたのかもしれない。だだちゃ豆って知らんなあと思ったのでびっくりしたけど、枝豆のことなんだね。枝豆をフリーズドライであれこれしたお菓子らしい。

 「うますぎる!!!!!!」と瞬間的に爆発するようなものではないんだけれど、「これは……うまいな……」と気がついたらずっと食べているタイプだった。カロリーもそんなないし、それなりにタンパク質も摂れるし好きだなあ。

 

 裏側に「だだちゃ豆」と呼ばれる由来が書いてあったのだが、「だだちゃ」とは父親を指すとのことで、なんかこういう言葉と食べ物の物語は好きだ。これ読んでブログに書こうと思ったくらいには。

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 なんか、読んだ瞬間に「目黒のさんま」みたいだなと思ったのだ。いや全然違うんだけど。でも言葉と食べ物と、ついでに言えば土地みたいなのが関わっているお話というところが面白く感じられたのかもしれない。

 

 「殿様のだだちゃ豆」無限に食えるので常備したいぜと思ったのだけどこれが結構お高い。15gで300円強する。同量の金と同程度である(んなこたーない)。でもまた行ったら買いたいな。

 

 つって調べてみたら、金って4年前に比べて倍近くになっているのね。こえー。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』二次創作としての擬似論文「自動手記人形—ドール—の産婆的機能についての哲学的一考察」

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズを全て観て、大変良かったので二次創作をやりました。アニメしか観ておらず、原作未読などで適当書いてるかもしれません。細かい設定らへんは想像です。二次創作ですが小説とかではなく、論文です。あの世界の学者が書いたというテイです。

 では、ご査収ください。

 

 

 

「自動手記人形—ドール—の産婆的機能についての哲学的一考察」

『ライデンシャフトリヒ大学哲学紀要』44巻より

著:ミシェル・ゴルチエ(ライデンシャフトリヒ大学哲学科教授)

著者近影

 

  我らが日常生活に不可欠なコミュニケーション媒体--手紙! 私たちが手紙を書く目的はさまざまである。友人へ近況を知らせる、恋人へ愛を伝える、親類へ感謝を伝える、等々。これらは日常でのささやかなものから、形式ばったものからと多岐に渡って書かれ、読まれる。もちろん、普段の口語におけるちょっとした書き物であれば、雑貨店にて便箋とインクを求め、ランプに照らされた机上でペンを走らせさえすればよい。しかし、正式な手紙であったり、表現に凝った手紙を出したいときに人々は何を用いるだろうか。自動手記人形(一般的にドールと呼ばれており、ここからはそれに準拠する)である。

 自動手記人形は修辞学とタイプライターの使い手である。彼女らが用いるタイプライターは、印刷史にその名を轟かせるオーランド博士が盲目の妻に捧げたものである。ここからして、この論文が行き着く先である言葉の音声的問題が暗示されていると言えよう。

 さて、私がこの短い論文で提出したい疑問は「ドールは何を代筆しているのか」ということにほかならない。高等教育の普及率が10数%であり、先の大戦の影響もあってその半分程度が軍学校へと流れてしまったいま、幼少より文筆の訓練を施される貴族以外は、ほとんど修辞学を使用できない。

 修辞学は文を構成し、美麗なものへとする方法であり、我が国のみならず、大陸では古くより正式な手紙は修辞を用いた文であるべきとされている。ドールの精神史は古く、タイプライターの登場以後に「自動手記人形」という名前が与えられたが、実際には「代筆業」は非常に古くからあるものである。かつては知識人や貴族の子弟が小遣い稼ぎにやっていたが、いつしか職業として認知された。ドールはその延長である。我が国の識字率は低くはないが、しかし「書く」という動作は非常に困難である。私たちの意識は言葉によって構成されていることは何人かの哲学者に指摘されているが、話すことはできても、それを筆記する--つまり、限られた紙幅に要約して構成する--ことの困難は論を俟たない。それでも日常程度の書き方はできるが、正式な手紙となると、様々な決まりを学ばねばならない。そのような形式的困難はもとより、私たちは本当に思ったことを書けるのだろうか? 会話は相手がいるので気持ちは「引き出される」。しかし、手紙を書く孤独な作業は、自分の思いを自分で引き出す必要に迫られる。思うに、ドールはこの「引き出す」作業のプロフェッショナルである。あのガルダリクの神経学者が、精神分析なる方法を編み出したわけだが、これもまた会話によって精神病者を回復させる試みであるという。これは、ドールの仕事と近似していると指摘しておこう。

 我が国最大の郵便社であるC.H郵便社の専属ドール、ヴァイオレット・エヴァーガーデン嬢は、先だっての海への讃歌起草者に選定されたが、彼女の評判は止まるところを知らない。曰く「真の気持ちを引き出された」とのことである。彼女はドロッセル王国とフリューゲル王国のシャルロッテ姫とダミアン王子の公開恋文を手がけた際、シャルロッテ姫に口語での筆記をするよう勧めた。ダミアン王子側のドールであった同社カトレア・ボードレール嬢と通じ、彼女が担当したダミアン王子にも交互筆記を勧めさせ見事婚姻を成功させた。その形式ばらない「本音」の恋文が我々民間の心を躍らせたのは記憶に新しい。この現象は、一見すると、姫の本音によって書かれたものであり、現代において修辞学の不必要さを示した例であると、反知性主義者による投書があったようだが、これは例外的なものだとはっきりと示しておきたい。また、ここにおいてドールの今後について心配する声もあるが、これもまた心配ないことを明記しておく。特にドールについては「姫に本音を書かせた」その手法こそがドールのドールたり得る所であり、明け透けに言ってしまうのならば、筆記作業そのものはさして問題ではないのである。

 私の大胆な告発--ドールの筆記不要性--は各郵便社から反発を受けることが予想される。しかし私はドールの価値を貶めたいのではない。先刻の電話機の発明は、ドールと郵便社の今後を占う画期的かつ危機的な出来事であるとの認識を広まっている。ドールはかの装置の発明後においても、素晴らしき聴き手としての未来が確約されていると私は確信する。この論文の目的は、ドールの世界的な位置を「書き手」ではなく「聴き手」へと転回させることである。念の為明記しておけば、ドールは客の発声をそのまま書き取る「自動手記人形」ではない。客の声を伝ってその身体に遡り、そしてその言葉を発した自我=感情にまで到達し、秘められたものを聴き出す。最終的に発せられる言葉はおそらく断片的なものだろう。ばらばらとした感情のかけらを、彼女たちはその指先で縫い合わせる。やがて紡がれる文章は、客の思いを、その口よりも雄弁に語るものであるはずだ。近年、ドール出身の小説家や劇作家が見られるが、彼女らの書き手として優れている理由は、ドールの「聴き手」性に依拠するのである。つまりそれは、客の聴き手であり、意識の聴き手でもある。彼女たちは、意識のささやきを逃さない。我らが思い、考える上で逃してしまう多くのことを、ドールは捕まえて筆記するのである。自己対話にもその能力は十全に発揮されよう。かの哲学者が自我を発見して以来、我々はさも自我や意識を明晰に感じられると信じているが、当然その認識なさは誤りである。自我-意識についての大いなる錯誤である。恋の相手を前にした、口下手な青年を思い描いてみるとよい! その思いは十全に伝わるのだろうか。そのためのドールである。我らが口頭から発される音声が、相手の耳朶に直接「配送」される時代が訪れようとも、ドールは私たちの思いを引き出す、いわば産婆的な存在として社会に求められるだろう。産婆術とでも名付けられる、彼女らの聴き手としての能力はここに書き留められ、名指されるのである。

あんこ期

 ぼくには定期的に「期」が来る。これは特定の食材や料理に固執し、そればっか食べる時期だ。かと言って全食そればっかとかではなく、ただマイブームとかハマっただけとかそういう程度ではある。

 

 この間はあんこ期だった。貰い物の最中が大変おいしく、あんこうまいうまいと食ってたらどんどんあんこ欲が高まったのだ。まず手始めにスーパーとかに売ってる100円しないくらいの最中を慰めに食べていた。でもどうもあんこがじゃりつく感じがあって、いいものではないと強烈に感じてしまう。そりゃ安いものだし、取り急ぎあんこ欲を鎮めるための差し水みたいなものだ。十分。

 次に近所にある老舗の和菓子屋に最中を買いに行った。看板菓子として最中を打ち出しているので大変期待できる。重量がかなりあり、見るとぱんぱんにあんこが詰まっている。「良し」と言って食うが、皮部分が薄く、あんこしか食ってない気持ちになりだめだった。「あんま行ってなかった近所の和菓子屋」って美味しいって相場が決まってるもんじゃないの???????

 

 結局、最初にもらった「&Co.」の最中(どうも兵庫の老舗和菓子屋のものらしい。東京にもある*1ので買った)ととらやの最中が1番美味しかった。値段は&Co.の方がやや安い。よくよく食べ比べると、とらやの餡がやや滑らかさの点で紙一重上回る感じはあったが、値段を考えると&Co.のは非常に優秀で、今後もハイレベルの最中を食べたいときに利用していきたい*2

 やはり、人気のあるところは美味しいのだというつまらない結論になってしまった。

 

 ちなみに、最中ばっか食べてたら家族に「そんなにあんこが食べたいなら羊羹でも食べたらどうだ」と言われたのだが、羊羹はあんこに対してストイックすぎる。あんこの塊じゃんあれ。ぼくは皮とのバランス込みで楽しみたいので……。あんこエンジョイ勢としては、競技あんこ的な羊羹にはまだ挑めないのであった。

*1:https://andco-andoko.online/

*2:&Co.の売りはあんこ クロワッサンらしく、これも美味しそうなんだけど今回は見送った。見送った理由はぼくの「ご飯の採点基準」にあるのだが、これについてはいつか書きたい