偽記憶を掘り返す『パプリカ』

 どうも、深由です。年の瀬ですね!

 

 ぼくはどちゃくそ音痴なんですがカラオケが好きなので、PS4DAMを入れて歌っています。最近は専ら米津玄師と平沢進を往復して歌っています。フルへ歌えねぇよ。

 この間、Foorinの『パプリカ』を歌ってみたんですけどキーが高すぎて原キーじゃ無理!となったのです。同時に、なんだか途中で涙が零れそうになる箇所があってですね。

 

 具体的には

喜びを数えたら あなたでいっぱい

帰り道を照らしたのは

思い出のかげぼうし

ってとこです。2番ですね。

 う〜ん、なんてノスタルジーを想起させる歌詞なんだろうか。子供時代を思い出して画面が涙で見えねぇ……

 

 ぼくにそんな記憶はない。

 

 これは、なにも『パプリカ』だけじゃないのです。存在しない記憶の捏造というのは、表現・表象につきものだと思うんです(根拠はないぞ)。作品の中に横たわっている体験を我々に追想させるわけです。

 そう言えばBunkamuraで昨年催された『ロマンティック・ロシア』というロシア絵画の展覧会でも同じ現象に囚われました。

 イワン・シーシキン『雨の樫林』なんですけど、これを観たときに「なんだか懐かしさがあるぞ」とか思ったんですよね。


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 しかしぼくはロシアに行ったことがないのでこんな植生の林を歩んだことがなく、更に言えば森林に入った記憶もあまりありません。勿論、ちっちゃい頃に連れられて行った大きい公園やキャンプに行った山の断片的な記憶が想起されて「なんだかノスタルジー」ってなっているんでしょうが、しかし思い出されてる絶対的な対象はないのです。「これが懐かしい」ではなく「なんか懐かしい(気がする)」という程度。もしかすると断片的な記憶がなくても懐かしさを感じるのかもしれないわけです。つーか、きっとオブリビオンかスカイリムの風景のが懐かしさが強い。

 

 米津玄師が平沢進に言及した時、平沢進『MOTHER』を取り上げて「懐かしさを感じる」って言ってるんですね。ヒラサワは東南アジア系統の影響を受けてオリエンタルな音を使っているわけです。そして我々は東南アジアに行ったことがあるかないかを問わずして「懐かしさ」のようなものを覚える。

 一方で東南アジアよりも近い中国を「異」国だと捉える向きもあるわけです。小野不由美は『月の影 影の海 下』(超面白かった)のあとがきで

「邦」と言われたときに、江戸を思います。「異邦」と言われたときには、真っ先に中国を考えます。その理由がなんなのかは、自分でもよくわかりません。

  と述べています。「人それぞれ」って言ったらそりゃそうなんですが、ぼくたちのノスタルジーが捉えているものが、曖昧なんじゃないかという気がします。

 というか、曖昧でなければおかしいんですよね。確固とした記憶との照合でしかノスタルジーを感じないのであれば、それは共感性の欠如ということではないでしょうか。また、想像力の欠如と言い換えてもいいでしょう。レプリカントじゃん! これは前述した、「存在しない記憶の捏造は必須」ということと被りますね。我々は共感性ゆえに、記憶を捏造(もしくは他者の記憶?を取り込みながら)琴線を震わせられるようです。

 ここでぼくが述べたいことは、なぜ『パプリカ』は共感性を揺り動かす力が(少なくともぼくにとって)高かったのか、ということです。まあ、結論を先に言ってしまえば「先に映像で埋め込まれていた」からなんですよね。メディアの勝利。

 『パプリカ』はFoorinが歌っているバージョンにはあまり関心がなかったのですが、本人が歌っているNHKみんなのうた』バージョンで初めてちゃんと聴いたというところがあります。そのバージョンには子供たちが夏の日に思い出を作っている(後に「かげぼうし」として想起されるもの)アニメーションだったわけです。その視覚映像によってぼくの「ない記憶」が刺激され、感情や思い出のかけら(キャッシュのようなもの?)が埋め込まれたわけです。そしてそのかけらが『パプリカ』を歌ったときにむずむずと動き出し、ぼくの感情を揺さぶった。そういうことだと思います。根拠はない!

 

 思えば、米津玄師はビジュアルをよく使うミュージシャンなわけです。MVも自作の絵を使ったアニメーションを用いることがあるし、その音楽は映像の視覚情報に補完されることで、なにがしかの意味を持ち始めるのだろうということは想像に難くない(だからこそ、ぼくは『馬と鹿』のMVに『ジーザス・クライスト・スーパースター』の引用があるんじゃないかとか、『Lemon』でハイヒールを履いてるのはなんでなんだとか色々考えているわけです)。

 Lemon=わたしの光、という解釈もまたビジュアルイメージに基づくものではないか、という考察が行われていた*1わけですし、米津玄師はビジュアルの作家、という気づきを再確認しただけでもこの記事に意味はあったんじゃないですかね。よかったよかった。

 

 んー、また散漫な文になってしまいましたね。よくないなあ。

アイデンティティが揺らいでる話

 こんにちは、深由です。

 ぼくは小学生のときから変なTシャツを着用する趣味を持っているんです。ウケるTシャツを着るという自己満足と、よしんば他人にウケたら楽しいという。

 「名古屋で起こしてください」と書いてあるTシャツを着ていたときは、ぼくの似顔絵(小学6年生だったので卒業時に下級生がくれたもの)全部がそのTシャツを着用していました。インプレッション!

 そんな感じで生きてきて、労働に手を染めてからは自分でTシャツをデザインして発注するようになりました。以下は実際にデザインして持っているTシャツの例です。


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 そんな感じの人生だったんですがなんだか最近熱意が失われていく音がしているんですね。「まともな服を着ろ」という妹氏からの圧力があるのも事実ですが、なんだか気力がない。間を取って映画のTシャツを着るくらいしかできてない現状です。しかし周りを見て「まともな服」を見てもそれは悲しいまでに没個性なんですよね。誰一人として印象に残らん。

 印象に残りつつ「まともな」方向にいくならそれはもうおしゃれさんになるしかなかろうもん、という感じなのですがそれはそれでお金が弾け飛ぶので気が進まないのです。というかおしゃれさんも結局そのクラスターに取り込まれちゃっていませんか?

 しかし、外見という軽いものにアイデンティティを託していたツケがここでやってきたのかもしれませんね……内的なアイデンティティを磨く時期がきたのかもしれないわけです。がんばっていきましょう。

感情の増幅される時代における生き方――『でしょましょ』へのアプローチ

 こんにちは、ブログ書く書く詐欺を毎回する人です。

 

 米津玄師のシングルが出ましたね。もう1週間も前ですが。『海の幽霊』は正直聴き飽きたし『馬と鹿』はなんかピンと来なかったので『でしょましょ』がお気に入りです(毎度のことだが鬼リピしていたら『馬と鹿』も好きになっちゃった)。

 ぼくは井上秋緒T.M.Revolutionの作詞を多く手がける人)とか椎名林檎とか米津玄師とか、「含みのある歌詞」すきすきマンなんですよ。だからハチも聴いてたわけで。考察ブログとかコメントとかツイートとか読んじゃう人なんですね。そんでもって今は批評とかに関心を寄せてるわけだから中学からずっと同じ事してるんですね。成長しろ。

 

 あんまり自分で考察とかするのも苦手だしこっ恥ずかしいんですが、『でしょましょ』について色々考えてしまったので書いていきましょう。

 先にお断りしておきますがぼくは音楽批評とか1ミリも読んだことないし文学批評とかもよく知らないのです(『ナボコフの文学講義』を本棚に積んで2年は経った)。なのでちょっとした感想文のようなものだと捉えてください。米津玄師の真意がどうあれ、ぼくが想像したらこうなった、という文章です。ほら、バルトに言わせれば作者は死んだらしいじゃん? そういうことよ。

 

 言い訳は終わった(長くなりました)。参照したテクストは主に次の2点です。

・『でしょましょ』(曲自体と歌詞本文)

・『news zero』(2019年9月11日放送回)

 

 結論からいえば、曲のテーマは「加速する感情の時代」だと考えます。

 まず『でしょましょ』が「今、ぼくたちが生きている2019年のこの世界」を歌っているのは確実でしょう。zeroでもそのような発言がありましたし、何より

令月にして風和らぎ

 

出典:『でしょましょ』

 という詞が2度出てきます。これは「初春令月気淑風和(後略)」からの引用です。『万葉集』の『梅花歌三十二首并序』とかいうやつの抜粋です。よく知りません。

 書き下すと「初春の令(き)月、気淑く風和らぎ」ということです。『令和』の出典ですね。というわけでここで令和という時代を設定しています。

 

  時代を表す言葉はまだあります。

異常な世界で凡に生きるのがとても難しい 

 

出典:『でしょましょ』

   『でしょましょ』によればこの時代は異常な世界だそうです。誰もが異常さに取り込まれいるのです。今の時代に特有で、多くの人がコミットしているのはインターネット、特にSNSではないでしょうか。今回はその筋からちょっと考えてみましょう。

 本作では歌詞への記載はないものの、人の発する音が多様されています。

獣道 ボロ車でゴーゴーゴー 

 

出典:『でしょましょ』

  の直後に息を呑むような音が使われるのを皮切りに、様々な音が使われます。

 使われているのは

・息を呑む音

・唸るようなざらついた低音

・笑い声(たくさん)

・叫び声

・外国語で何かを言っている

・泣き声

・(子供の?)叫び声

 です。

 外国語のやつを除けばあとは全て感情の発露です。言葉以前の、より原始的で、感情に直結した発音たち。それが2番から挿入され、どんどん増えていくわけです。感情がどんどんと増幅される。これってよくSNSで言われていることです。怒りを表明したようなポストが多く拡散され、人の感情にアプローチする文章がどんどんと増えていく。不平、不平等感が生まれていく。政治性を帯びた界隈ではもちろん、一時期話題になった「SNS疲れ」にも同じ事が言えるのかもしれない。より「洗練された」「楽しそうな」投稿、より多くのいいねがつく投稿への憧れ。

 そしてSNSは現実*1に起こる事件ともリンクし、更に感情は拡散、増長していきます。どの事件を指しているかについてはここでは考えません。『zero』では言及されていた事件もありますが恐らくそれだけを念頭に置いているわけではないでしょうし。少なくとも、この令和という時代はあまりにも凄惨な事件たちの発生とともに黎明を迎えたのです。ぼくたちとは直接関係ない事件です。だからぼくたちにはどうしようもない。防いだりもできない。しかし確実にぼくたちの心に直接刺さってくるのです。それは本当に歯がゆく、ただただニュースを見る度、眼をそらしたくなる痛みを伴う事件がたくさんありました。だからこそ

非常にやるせないことばかりで全部嫌になっちゃうな

 

出典:『でしょましょ』

 という心境に至るのです。

 加えて、その事件に対しての「お気持ち」がSNSで拡散されるようになります。投稿を見た人が更に感情を高ぶらせていく。そして感情の拡散と共に尾ひれのように典拠不明の憶測やデマが流れていく。歴史を見れば、その現象自体は昔からあるものです。しかし拡散のスピードは人類史上最速でしょう。そしていまや日本やその近隣社会はインターネットから逃れることが極めて難しい。それこそが「異常な世界」なわけです。

 

 この異常なSNS時代を補強するのがタイトルにも使われる「でしょ」「ましょ」という言葉です。使われているのは

如何でしょ 私のダンスダンスダンス

ねぇどうでしょ それなりでしょ

(中略)

凄いでしょ

(中略)

まあまあ踊りましょ

(中略)

ここどこでしょ?

(中略)

今日はいい日だ 死んじゃう前に なあなあでいきましょ

 

出典:『でしょましょ』

 のとこです(どっか抜けてたらごめん)。

 「でしょ」は確認の意味を持ちますし「ましょ」は提案で使われています。これらは常に他者の存在を前提としています。すべて1人ではできない動作であり、他者(社会)がなければなりません。そしてSNSというのはぼくたちに孤独を許さないメディウムです。目にするのは常に他者の発言であり、ぼくたちの言葉は基本的には(SNSの生み出す)社会に垂れ流されます。垂れ流された言葉は誰かの目に止まり、その人に作用し、連鎖していく。やがて

口にするのも憚られるような悪辣な言葉

 

出典:『news zero

 を目にするような状況が増えてきたわけです。

 

 ここまで書いてきて問題が発生したぞ。解釈にオリジナリティがなさすぎる。みんなわかるとこだけやってても仕方ないね。少し踏み込んでいきましょう。

 

 『でしょましょ』には分断があります。1番と2番以降との間に明確に境界線があるのです。前述した「息を呑む音」が挿入されてからは「感情が繋げられ、拡大するソーシャルネットワークな社会」について歌われますがそれ以前では

如何でしょ 私のダンスダンスダンス

一人きり 見よう見まねで憶えたよ 凄いでしょ?

 

出典:『でしょましょ』

 と歌われます。これもインターネットを表象していると読めるんですが、しかし2番以降と違ってまだ平和なんですよ。では1番と2番の境界線は「拡大し、感情が爆発するようになった時代かどうか」ではないかと。1番を過去のインターネットだとしましょう。

 「一人きり」で「見よう見まね」で多くの人が作品を作っていた時代のことかもしれません。「~してみた」とかMADとか、ググって作ったよね。*2

 もう少し掘り下げていきましょう。「見よう見まねで憶えたダンス」もまた他者の存在を前提としています。そりゃそうです。まねする相手がいなければ見よう見まねできません。そのダンスを誰かに認めて貰いたがっている。ここを深読みすると1番までは「承認欲求を推進力にしていたインターネット」なのではないでしょうか。そして今から見ると、それは今よりは平和な世界だったのかもしれない。そして米津玄師はそんなインターネットで脚光を浴びた存在であることは言を俟ちません。ハチとしてニコニコ動画に現れたころ、まだそこは(今から見れば)平和なインターネットだった。インターネットで有名になったものが世間でウケる、というような現象は珍しいような時代だったわけです。

 しかしその後の時代、今やインターネットは(繰り返しになりますが)怒りの増幅装置と成り果てました。怒りだけでなく、憎悪もまた増幅されその言葉が流れていくのが現在です。

 米津玄師は昔のインターネットを懐かしんでるフシがあります。『砂の惑星』がかつてのニコニコ動画だとする解釈がありますが、それと同じことを歌っているとも読めるのではないでしょうか。

この井戸が枯れる前にここを出て行こうぜ

 

出典:『砂の惑星

 という『砂の惑星』の歌詞が示すように、かつてのインターネットは「水が湧き出る井戸」だったのではないでしょうか。

 

 そして1番2番ともに「異常な世界」という言葉が出てきます。しかしそれは同じ意味で使われているのでしょうか。ここまでのぼくの流れを肯定するならば、違う意味で使っていると考えるべきでしょう。

 かつてインターネットで活動するとき、それは世間と乖離することを含んでいました。iPhoneが日本で発売された前後、インターネット環境が今ほど行き渡っていない時代です。そういう時代では「凡に生きるのが難しい」わけです。インターネットでなにかすること、こそが少数派なので。ですが、よりインターネットと世間とがより密接になった今でも「凡に生きるのが難しく」なったのです。ここでの凡とは、逆に「インターネットに取り込まれない」ことを指しているようにも読めます。つまり正常であること、拡散された感情に押し流されないということを凡と考えます。ぼくたちはインターネットによって正気でいられない時代に生きているのです。

 ずーっと見てきたように2番以降はやはり「異常な時代」に突入しているわけです。ではその異常な時代にどう生ていくべきなのでしょうか。「楽にいこうぜ」というメッセージを読み取るのは簡単です。「なあなあで行」けばいいわけなのです。そこには時代に対する諦観も見え隠れします。

ハンドルを手放してもういっちょ アクセルを踏み込もう

(中略)

今日はいい日だ死んじゃう前に なあなあで行きましょ

 

出典:『でしょましょ』

 コントロールを運に任せ、しかしむしろ進んでいく。そこには好き勝手に生きていくことを称揚する意識があるのではないでしょうか。こんな時代なのだから、「死んじゃう前に」肩肘はって生きていくよりは好きに生きていこうと歌っています。

 今日はいい日なのかもしれないのです。凄惨な事件が起きていないかもしれない。いや、起きているかもしれないけれど、少なくとも自分は生きている。何が起きるかわからないこの時代に起きて、まだ自分は息をし、汗をかき、身体を動かしているわけです。そこだけにおいて今日はいい日なのです。まだ死んでいないのなら、その前に好きに、適当に生きていいのでしょう。

 

 

 米津玄師にとって、今の世界は感情が拡散され、増幅される異常な世界なのです。対比するように、かつての世界はもう少しマシだった。日々異常になっていく世界に生きているぼくたちは、好きに生きていくべきなのです。明日死んじゃうかもしれないのだから。

 

 

 疲れた。論理に無理筋が多いのは許して。早く書くのを優先したとこは実際ある。一応、他の考察を全く参照していないのでぼくの感想としてはかなり純に近いのではないでしょうか。『news zero』を観ていなかったら全く掴めなかったろうし、米津玄師本人が語ったものから逸脱はできなかったのであまり優秀な評論ではないですね。もうちょっと精進しましょう……。本当はもうちょっと色々書きたいことはあったんだけど、脱線しすぎるのと力不足ですね。今回は1個のテーマで書くしかない。

 少しはこの曲に近づけたんだろうか。もっとコンテンツへの解像度を高めていきたいですね。パッキパキの解像感で接していきてえ〜〜〜〜〜。

 ちなみにぼくの論理では解釈不能な箇所があるのですがそこはまあ見逃してくれ。

 

 あと確認のために『news zero』を見直したらひっくり返った。書いたことそのまんま言ってるじゃん! この文章が無意味化する~~~~~。しかし米津玄師はすごいですね。「自分と真逆のことを考える人間の言うことを一旦引き受ける余裕は持ちたい」とか言ってましたよ。嫌な感じの人間を即ブロックして「快適なTwitterだなぁ」とか言ってるぼくとは大違いだ。

 

 

 追伸:1分54秒ごろの英語っぽいところ、なんて言ってるかわかった人がいたら教えてください。"- don't like it"って言ってるように聴こえたんだけど主語がわからない……。ここがわかるともう少し何か言える気もするのです。

*1:メディア研究においては、「現実はメディアが作り出す」とも言われるのでそこも考える必要がありますが今回はそっとしておこう

*2:「急な雑語り」だな、とお思いかもしれませんが深くやると死ぬほど勉強しなきゃいけないから許して欲しい。ダンスとか、身体論のテーマとしてめちゃくちゃ王道だし……

ぼくも観たぞ『ダンベル何キロ持てる?』

 どうも、一人称があやふやな人です。

 

 流行ってるようだし、万年ダイエッターなので『ダンベル何キロ持てる?』観ました。Netflixにあって助かった。

 結論から言うと、大変面白いしダイエットのモチベーションががつんと上がる。毎回、街雄の筋肉講座が楽しみで観てるとこある。あとダイエット関連の情報もちょいちょいあるのがとってもサンクス。でもチートデイの話は普通のダイエッターが真似するとよくない気もするなあ……ちゃんと食事管理できる人じゃないとダメだってイメージがある。少なくともゆるゆる食事制限(カロリー計算のみで食品の種類はあまり気にしない)をしているぼくには向いてない気がする。でも高タンパク低カロリーな生活は正直いってきついからなあ……ほら、アイス食べたいじゃん?????

 あっ、あと体育祭回で腸腰筋の解説があってよかった。筋肉部位の名称、あとそもそもどんな筋肉があるかよくわかっていないので参考になりまくりますな。下っ腹が永久に出てるのでいいかも。あと家系なのかケツから太もも(ハムストリングスというやつか)に脂肪が全く落ちなくて死亡なので(ガハハ)、その辺についていい感じの自宅トレを紹介してほしいなあ。レッグガールやりたいんだよねえ。でもジムはお金もかかるしなあ……。あとスクワットきついし飽きちゃう……。

 あ、あと今月であと1kgは最低でも落としますね。というかこの間2kg一気に太ってしまったので戻したい。戻さなきゃ……。10月までに5kg落としたいんだよなあ……。がんばりましょうね。いえい。

ネタバレ全開要約1 『ローズマリーの赤ちゃん』

 どうも、深由です。

 いや、気がついたら半年近く更新してませんでしたね。これもすべてPCの不調が悪い。まあ普通に使えてた時も更新はしてなかったんだけど。

 最近めっきり創作をしなくなって能力の低下をひしひしと感じるんですが、ぼくの基本能力の低さとして「要約がド下手」というものがあります。これからちゃんと文章を書こうとしている人間として日本語の文章作成能力がとても低いのは洒落にならん。というわけで気が向いたら観た映画のあらすじを要約しようと思います。レビュー的なことはしません。感想くらいなら書くかも。あらすじを書くんだと意識して観ればよりちゃんと観れるかなあとも思うし。

 

 今回観た映画は『ローズマリーの赤ちゃん』。1968年のアメリカ映画。監督はロマン・ポランスキーポランスキー初めてな気がします。もっとたくさん観なきゃなあ。

 では要約です。

 ニューヨークに引っ越してきたウッドハウス夫妻は曰く付きのアパートを借りる。曰く付きとは、そのアパートでトレンチ姉妹が子供を食べただの、霊媒師マカートが殺されたという類いのものだ。

 妻のローズマリーは隣部屋のカスタベット家に居候するケリーと仲良くなるが、ケリーは自殺をしてしまう。それを機にカスタベット夫妻とウッドハウス夫妻は親しくなっていく。馴れ馴れしく、世話好きな隣人を鬱陶しく思うウッドハウス夫妻だが、夫であり俳優のガイは非常に親密になる。ローズマリーも夫妻を無碍にはできず、ミニー・カスタベットにタニス草という薬草の入ったペンダントを貰う。しかしそれは、ケリーが自殺前にローズマリーに見せたものと同じペンダントだった。

 ある日、子供を作ることを決心した2人だが、ミニーが差し入れたチョコレートムースを食べた夜、ローズマリーは悪魔に犯される悪夢を見る。翌朝、ガイが眠っているローズマリー相手に子作りをしたのだと告げる。やがてローズマリーは妊娠し、友人に紹介された産婦人科にかかる。しかし、ローマン・カスタベットの勧めで夫妻が懇意にする産婦人科へと医師を変更。新しい医師はミニーにタニス草を含んだ薬草を煎じた飲料を作ってもらうように指示し、ローズマリーは従う。しかしローズマリーはひどい腹痛が長期間続き、どんどんと痩せ細っていく。妊婦は痩せてから太るものだと医師は太鼓判を押す。

 しかしローズマリーの面倒を見ていた作家、ハッチは心配する。ハッチはタニス草を不審に思い、調べてみると言い残す。しかしハッチはローズマリーと会う約束を取り付けるも、突如昏睡状態となりやがて死んでしまう。ハッチの娘から貰った『悪魔のしもべたち』という本を読んだローズマリーは、ハッチは悪魔崇拝をする人々に呪い殺されたのだと思う。そしてローマンは悪魔崇拝をしていたマカートの息子であり、自分の子供を生贄にしようと企んでいるのだと信じる。そして、産婦人科医もまたタニス草のローションを付けていると知る。一方でガイもライバルの突然の失明によって役を獲得するなど、都合よく出世していることから、ローズマリーは夫も含めた悪魔崇拝者たちが子供を狙っている陰謀を主張し、逃げようとする。しかし妄想だと思われ、医師に捕まってしまう。そのまま出産するが、死産だと告げられる。しかし自分の母乳がどこかにもっていかれたり、違う部屋から赤子の泣き声がすることで死産というのは嘘だとしたローズマリーは秘密の扉を見つけ、悪魔崇拝者の会合に押し入る。そこで自分の子供を見たローズマリーは衝撃を受ける。子供は、ガイとの子ではなく、悪魔の子だった。悪魔に犯されたのは夢ではなかった。ガイはやはり、出世と引き換えに悪魔の子を産ませるよう悪魔崇拝者に協力したと告白した。

 ローズマリーは悪魔の世継ぎとなった我が子を見つめる。そしてその周囲で、悪魔崇拝者たちは悪魔の世が始まったことを宣言する。

 

 

 

 くっそ長くなったし文章が下手だな! まあそんなことはいい。これから上手くなるもんね。

 めっちゃ面白かったです。いや、最初「カスタベット、めっちゃ気味悪い!」ってなるんよ。お医者もグルっぽいしさ。そもそも医者に電話するときに「今度こそは」って言ってたり居候のケリーが死んでもそんなに悲しそうじゃなかったり。でもだんだんローズマリーの妄想に見えてくるんだよね。本を読んでからのローズマリー統合失調症的な、陰謀論信じ切った人になっちゃうからこっちも「全部勘違いってオチかなあ」とか疑っちゃう。でも出産以降のシーンでやっぱり怪しい。母乳をどっかに持ってったりとかで「どういうこと?」ってなる。そんで最後にめっちゃ集会してるし。ヘイルサタン! って言ってるし! ガチのやつだ!(Church of Satanとは違うけどね)

 最初にめちゃめちゃ怪しくしておいて、でも途中で主人公を「信頼できない語り手」だと思わせることでこっちの感情を揺さぶってくる。すごかった。2時間超えなのにそんな長く感じなかった。ローズマリーが痩せ細っていく怖さとか、暗い家の不気味さとか。怖いものが出てきてないのに薄気味悪さでこっちが勝手にびびってく。あと後ろの使い方もよかった。ローズマリーが前の医者に電話したとき。医者のかけ直しを待ってると公衆電話に人が来ちゃって焦るとことか。前の医者に相談するところでローズマリーへの疑いが出てきたのでそれまでは感情移入してるんだよね。だからローズマリーの焦りを追体験しちゃう。あとローズマリーが逃げて寝室で電話するショット。後ろで忍び込んだ人たちが忍び足で横切るところは流石にびくってなった。誰もいないとか安心しきってたもんなあ。怖かった。検索したらミステリーとか書いてあったけどこれ完璧ホラーでしょ。

 いやあ、よかった。妙な信者たちにゆっくりと害されていくっていうの、『ヘレディタリー/継承』を彷彿とさせた。良かったなあ。

ぶち切れよみよみ丸

 どうも、深由です。

 

 現在学校の課題で丸山直起『ホロコーストアメリカ』を読んでいる。課題と言っても、指定されたわけではなく選んだのは俺なんだけども。 

 

 読むのがのろのろな俺でも結構読みやすく、非情にはらはらさせられる展開も多くて面白い。今更ながら歴史の面白さというものを噛みしめているんだが、本書で述べられているある出来事を読んだ時、心底胸くそ悪くなった。本は悪くない。本が示す事実にである。

 

 1938年11月9日の水晶の夜以降、ドイツ国内で反ユダヤ主義が席巻していく中、アメリカでは「ユダヤ人児童を保護すべき」という声が上がる。アメリカは移民国家ではあるが、既にWASPによる権益が構造化されていた。1924年民法などの制定により、新規参入は極めて厳しい状況であった。そしてユダヤ人は流浪の民であるため、かつてから好かれてはこなかった。「労働を奪う」とされていたわけだ。今もそういうこと言う奴いるよな。

 そんで、まあ歴史的な経緯もあるわ経済的な余裕もないわで、ユダヤ人移民の受け入れに対し非常に慎重な姿勢であったアメリカだが、ドイツの非人道っぷりが顕在化してくると共に「せめて児童には門戸を開きましょう。大人の移民より負担は少なくすむし」という意見が出始める。ぶっちゃけ「移民の面倒見切れる余裕ないよ!」ってなっちゃうのは理解できる。世界恐慌もあるし、自国民の食い扶持稼ぐのに精一杯だったからこそ移民制限をかけていたのだろう。しかし、やはり人道的に児童は救うべきだという声が出てくるのは素晴らしいと感じた。1924年民法の改正案が提出され、児童を救うべきだと議会でいよいよ審議される。

 でもいるんだよな。反対する奴。在郷軍人会やら「アメリカ革命の娘たち」とかいう団体やらが「他の国にも犠牲になってる人がいるのになんでドイツ優先なんですか」とか「まずユダヤ人の子供より貧困にあえぐアメリカ人の子供を救うべきでしょ」とか一見正論っぽいことを言い始める。そんで(スパイにビビりまくってる)国務省も反発して廃案!(今調べたら「アメリカ革命の娘たち」はDARといって、独立戦争に参加した家系の子女で構成された団体だってコトバンクが言ってた)

 一方で翌1940年にバトル・オブ・ブリテンが起こると今度はイギリス人児童が危機に晒される。再び米国内で「子供を救え」という声が湧き上がった。今度は反対の声なし! イギリス人児童835人はアメリカに疎開した。

 そして疎開が報じられると米国内の1万5000以上の家庭から「6歳で金髪の少女であればうちで面倒みるが?」といった申し込みが殺到したという。(前掲書p161-163)

 FUCK OFF。無事疎開できたイギリス人児童は本当に良かったが、謎の正論っぽいことで反対し、阻害したクソ共は見殺しにしたんか。差別主義者め。

 いや、いいんだよ。差別主義なら差別主義で。「あー、クソだな。早く釘とか踏み抜いて死なねーかな」って思うだけだから。でもさ、こういう奴らの醜悪な点って「他にも犠牲が~」だの「アメリカの子供も~」だの何か別のものを隠れ蓑にしながら差別をかましてきやがる。差別したいならそう言えよ! 「俺私はユダヤ人もそのガキも嫌いだからアメリカの土を踏ませるな!」って思ってるならそう言え! 婉曲して自分の差別心を他の何かに仮託するな馬鹿!

 これだから「正論」は嫌いだ(括弧で区切ってるのに意味はないぞ。特定の雑誌とかを指してるわけでもないからな。勘違いするなよ!)。正論は一面において正しく、全くお話にならない。何も深まらない。軸がない。そしてそれはパっと見で正しそうなだけじゃないか。本当に正しいのか? アメリカ人児童の貧困を救うには、ユダヤ人の見殺しが必須だったのか? そんでなんだよ「6歳の金髪の少女」って。差別主義で眼を爛々と輝かせやがって。クソが。

 

 

 困ったことに、現代でもこういう奴らはいる。

 「こういう問題は解決しなくちゃいけないよね」って話をしてるのに「じゃあこっちはどうなんですか」とレイヤーの違う話をぶっ込んでくる馬鹿。ほんと爆発とかしねーかな。

新年ですってよ@2019

 あけおめでござる。

 

 2019年だそうですよ。今年も早いんでしょうか。早いんでしょうね。

 2018年は映画を150本観れました(ら抜き言葉)。2017年は120だったかなぁ、と思うので増やせてよかったです。見返してみると全部楽しかったなぁ、と思います。また今年もたくさん観れるといいなぁ。f:id:MyYm34443:20190101213435j:image

 

 さて、去年はあんまりお勉強できなかったように思えます。これは反省。なので今年はやはりお勉強しなきゃな、と思う次第です。そろそろ院試も意識しなければなりませんしね。ひえ〜〜、大変だ。

 2018年もたくさんの出会いがあり、また思いがけない再会もありました。とても良い年であったことは確かです。嬉しいこともたくさんでした。しかし僕は過ぎ去ったどの瞬間も大切にしつつも、それ以上に今このとき、そして次の瞬間を大事に慈しんでいきたいと思っています。楽しくしていきたいですね。

 また今年は去年以上に文化に耽溺して、意識を拡張していきたいと思います(あっ、スピリチュアルな意味ではないですよ。視野を広げるとか、アンテナを高くするとか、感動を深めるとか、現実的な意味です)。

 

 それではみなさん、良い年にしましょうね!