解像度たかいたかーい

 馬田隆明解像度を上げる:曖昧な思考を明晰にする「深さ・広さ・構造・時間」の4視点と行動法』(英治出版、2022)という本の存在を知った。

 中身は読んでいないのだけれど(ごめん)、ひと目見た瞬間に「わあくだらねえ」と思ってしまった。でもそれ以上に、「解像度を上げる」「解像度が高い」とフランクに使われている状況が面白いなあとも思った。なんなんだ解像度って。ちょっと考えたい。

 

 当然、インターネットのすみっこにいると*1、「解像度」の新用法はよく見かける。例えばある作品やキャラクターのカップリングについての解釈が他のひとのそれよりも精緻であったりするとき、「解釈の解像度が高い」と言ったりする。最近では米津玄師の歌詞は「解像度が高い」と言われるし、米津玄師の解像度の高さを「高解像」で語るツイートがバズったりしているのもちょいちょい見かける。

 ここで言われる「解像度」はきっと従来は「見識が深い」とか「面白い視点」とか、「造詣が深い」とか、そんな表現をされてきたものなのだろう。「解像度」はもちろん、ディスプレイにおける画面解像度、すなわちピクセルの数が念頭に置かれていて、モニターなんかに詳しくないひとでもYouTubeとかで日常的に見かける概念なんだろう。一般的に720p以上であればHD(High Definition=高解像度)であるとされていて、4Gネットワークとか、外で動画を見るときなんかは自動で240pだとかでネットワークの使用を抑えたりする。その、低解像時のノイズの多いさまと、高解像時のすべてが見通せるさまを「解像度が高い見方(≒アイデア、解釈、etc...)」と言っているのだろう。

 ここで違う線を導入したい。美術史家の松下哲也が提唱した「シコリティ」*2だ。松下はここで、近年の映像表現に用いられる画面のノイズだとか色収差、ピンボケが従来の美学的二項対立概念の中間に位置する「シコリティ」と呼びうる新しい概念だと指摘している。とてもざっくり言うと、新海誠のアニメで使われているようなフレアだとか、本来のカメラ的には避けるべき要素とされてきたはずが、現在では「エモい」表現として感じられていることを理論化する試みだ。ぼくはこれにかなり賛同していて、つまり品質が保たれる(=一回性のない)デジタルデータだからこそ、ボケだとかフレアだとかがうつくしい、エモいものとして復権しているのだなと考えている。

 ではここで「シコリティ」の高いものをとりあえず出しておこう。

『天気の子』におけるフレア。ぼくの自宅から徒歩2分くらいのとこです。

 また、YouTubeにて公開され、ミーム的、二次創作的に増殖しているホラー映像群「バックルーム」もまたノイズが多く「低解像度」であることで恐怖の異形が存在す地にノスタルジックな効果を与えている。それ以外にも、写ルンですやチェキ、ポロライドカメラ風にする画像加工がアプリによって提供されていたりするのも、わざとノイズを乗せて「エモく」する行為の需要を示している。

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 さて、ここで「シコリティ」の話を持ち出したのはもちろん、これが「高解像」と対立する概念ではないかと睨んでいるからだ。ぼくたちは果たして高解像でありたいのか、はたまた低解像でありたいのか。

 低解像であることは「(作品の物理的な)崩落」*3を予期させ、鑑賞者にフェティッシュを抱かせる。このように、現在ぼくたちが目にする作品は、デジタルデータであるがゆえにそこにエモくて感傷的なフェティッシュが盛り込まれているのだ。そこにぼくたちは「シコリティ」を読み取っている。作品鑑賞において、ぼくたちは低解像度なものを好みがちであるようだ。

 ではなぜここまでシコい、つまり低解像のものに惹かれる一方で「高解像」でありたい欲求が出てくるのだろうか。ここで、「曖昧さへの畏れ」ではないかと考えたい。

 ぼくたちは曖昧なものを嫌う、ようだ。これは昨今言われている「倍速視聴」だとか「作品解説」「考察」だとかすべてに共通するんじゃなかろうか。もちろん、考察ってするひとは考えるのが楽しいからなんだろうけども、最近では作品名でYouTube検索などするとすぐに「考察」「解説」が乱立する。それは作品を鑑賞し終わって「なんだったんだ……?」となる時間がきっと気持ち悪いからだろう。そして、作品の理解を高めたい、作品に対して「高解像」でありたいのだ。そしてそれは「オタクでありたい(=詳しくありたい)」欲望と結びつき、別の側面として倍速視聴を産んだのではないだろうか。しかし、ぼくたちは曖昧さの残る、つまり必ずしも明晰でない、シコい表現を好む。それは『ミッドサマー』の流行もそうだろう*4

 つまり、「高解像」と「低解像」は表裏一体をなしているのだ。ぼくらはシコい、曖昧さのある作品を好む一方で、それが「低解像」なままに自身のなかで置いておけないのだ。新海誠的な、単に画面の、映像技法としてのシコリティは「エモい」と明晰化して取り込めるのだろうけど、物語や総体としての作品に組み込まれた、理解を妨げるノイズはそうはいかない。

 さて、ここで冒頭に挙げた書籍が「くだらねー」と感じた理由を書いておきたい。千葉雅也『現代思想入門』(講談社、2022)の「序文」では、"複雑なことを単純化しないで考え"ること、秩序立てて「明晰に」物事を整理していくシステムではないシステムの重要性が語られる*5。だからこそ何でもかんでも「明晰に」したい、HD=Hight Definition(高解像度、強い「定義」)への渇望はくだらないなあと思ってしまう。例えばデヴィッド・リンチの映画を観て、すぐさま解説動画を探すのは、それはもう曖昧さへの不安が強すぎるわけで。つって、ぼくもまあ「わかんねー!」って調べたくなっちゃうんだけどね。自戒として*6

 結論としては、なんでもかんでも「解像度高くしよう」だなんて思わなくていいんじゃないの、ってことに過ぎないのだけれども、それはTwitterでもなんでも、どんな話題にも「なんか言おう」みたいな意識があるのとも通底しているのだろうな。

*1: 最近では「インターネット」という言葉の使われ方も気になるがそれは別で

*2:松下哲也「Vaporwaveと「シコリティ」の美学」『ユリイカ 詩と批評:特集=Vaporwave』(青土社、2019)

*3:松下は美術批評家・峯村敏明の「崩落」概念を援用している

*4:たとえばWebライターのダ・ヴィンチ・恐山はミッドサマーの気の利いた感想はもう出ないという漫画を描いている。

note.com

*5:と言って読み返していたら千葉も"高い「解像度」"と言っていて笑った。

*6:自戒と言っておけばなんでもかんでも放言してよい風潮に乗っかっていきたい。