雑記20210725

 心が暗いもので覆われている。

 まあ、そんなことは日常茶飯事、どころか数秒ごとに躁鬱を繰り返しているぼくにとっては通常運転なんだけども。

 しかし時として言語化できない、したくない鈍重な思いが現れて精神を縛り付けてくる。束縛の、仮象の縄目はいつしか実在する縄へとぼくを志向させていく。

 

 ううん。こういう書き方も嫌になる。簡単に言えば気分が下がって仕方ない。どんどん死にたくなってくるというだけなんだけど。

 最近、というか今年に入ってから個人的に千葉雅也がキていて、『勉強の哲学』を読んでから『デッドライン』を読み、芥川賞候補記念に『オーバーヒート』を読み、そして『アメリカ紀行』も読んだ。一貫してある「複雑性を大事にする」問題意識は、ぼくが前から影響を受けている高橋ヨシキ陰謀論について語るときに言っていたことと重なり、どちらも非常に賛同する。曰く「陰謀論は「世界を理解したい」という欲望に基づいている」。これは世界を単一な陰謀という単一化のもとにおいて、「理解する」ということで、千葉の問題意識もまたこれに抗う。千葉はリベラル的な運動が単一化の論理によって小異が削り取られていく危機感について語る。マジョリティに包摂されるくらいなら異常でよい、と自身のセクシュアリティから語る。個人的にポリティカル・コレクトネス(PC)は重要であると思うが、それはあまりにも酷い現実が多すぎるからであって、本来なら千葉の言うようにPCの「正しさ」が先行する思考なんてむしろ拒絶すべきなんだと思う。それは結局、(無事批判された)無印の「ジェンダーレス」衣服のような、公正さ先行の非多様なものの氾濫を許してしまう。ぼくが反対したいのは押し付けであって「らしさ」の廃絶ではない。

 

 何も考えずにここまで書いた。最近文章をTwitterでしか書いていなかったから。千葉や宮台真司についてちょっと書いたら、それぞれご本人からRTされて、次いでそこそこの反応をもらった。そこで少し高揚する自分を見つけて疎ましく思う。そういう積み重ねで何もかも嫌になっていくのかもしれない。

 

 『竜とそばかすの姫』を観て、相変わらずだめだな、と思った。昔ブログに『サマーウォーズ』の批判をつらつらと書いたが、そんな感じ。もう当該エントリーは消したと思うけど。ぼくと細田守は徹底して合わないらしい。新海誠も『言の葉の庭』で初めて観たときに「なんて酷いんだ」と思ったけど、『君の名は。』『天気の子』と個人的に結構好きなので細田守ともいつか波長が合うといいなと、少しだけ思う。

 

 ジル・ドゥルーズの『アベセデール』のDVDを買ってから数ヵ月、このままじゃタンスの肥やしになり続けると意を決してアルファベごとの短い動画にすることにした。しかし、自分で買ったDVDをコピーできないなんてことがいつまでまかり通っているんだろう、と暗い気持ちになる。そりゃコピーの流出は重大な問題なんだろうけど、もうちょっとなんとかならないものか。結局、その気になればいくらでも複製されるのだから。「技術的保護手段の回避」そのものを刑事罰の対象にするのに何の意味があるんだろう。それが一体誰の権利を脅かすというんだろうか。そこで脅かされているのはむしろ消費者の権利な気がしている。無断アップロードとかそういうのが金銭的な被害をもたらしているというのに。結果ストリーミングに全てかっさらわれ、巨大資本の殴り合いになってしまって悲しいね。

 

 世の中の動きを見ているととても辛い気持ちになる。多様な価値観があって社会は成立しているんだとわざわざ自分に言い聞かせなければならないくらいにヘンテコな言説がまかり通っていて、「文句を言うやつより楽しんだ方がいい」みたいなことを平気で言えるひとたちが多い。そういう面も否定しないけど、それが何をもたらしたのかということ。ぼくだって十分にできているわけはないけれど、構造的な問題について考えるひとが少なすぎる。何も期待しないでおこうと思う。

 

 自分がどんどん何もできなくなるのを感じている。もう、ちゃんと映画を観ていない。小説も読めなければマンガも読めない。音楽もずっと同じのばかり聴いている。ぼくの好きなものってなんなんだろう。一周回って自分探しのターンに突入しているのかもしれない。旅に出る気はないが。小説を書きたいとか色んな「したい」ばかりで「する」にならない。

 

 ここのブログタイトル、今は「第弐思考統制管理塔(仮)」なんだけども、マジでダサいのではやく変えたい。まず第一(壱)があるわけでもないし、伊藤計劃とか、弐瓶勉的なニュアンスを出したかっただけなのだろう。どちらのちゃんとした読者でもないってのがまた自分の嫌さが出ている。ああ、最悪だ。