夏至・東京都三鷹市

「女の腐ったような奴だね、ほんと」
 彼女の口から発されたそれが別れの言葉だとはすぐに理解したが、悲しみや悔しさよりもまず「なんて前時代的なんだろう」と思った自分を、どこか遠くから見つめていた気がした。まさか元号が変わってなおそんな女性蔑視に基づく表現が、そして自分の同世代の女性から突きつけられるとはなあとぼんやりと思う。ーー単なる指示語としてではないなら「元」の頭辞が今まさに付くことになったろうーー彼女が目の前から立ち消えても、ぼくはどこか他人事としてしかその場にいなかった。こうやって自分を客観視するのもひとつの防衛規制なのだろうか最近フロイトの入門書なんか読むからそんな単語で説明しようとするのだしかし読んでいなくてもこのように俯瞰して考えざるを得なかったのだろうなにしろぼくはいまとてもショックを受けており明日からどうやって孤独に耐えればよいのかと疑問符が脳内を駆け巡るがぼくは単に彼女を孤独を慰めるためだけの存在と思っていたのだろうかいや違うはずだったし本当はもっとなにか尊い関係を作りたかったのではないのかとこうやって思考が連鎖し展開するのはそうかこれがジョイスの「意識の流れ」と言うやつかこれが小説ならば句点なく文章が続いているのだろうがそれすら前世紀の真似事にすぎないわけでこのように目の前にあるカップのコーヒーからたつ湯気がおさまらぬうちにこんなにも思考が連綿と著されるならばなるほど時間を文章に組み込むとは如何にーーこんなのわざとだ。もうやめよう。
 ずっと海外旅行をしている気分だった。どうしようもなく現実なのに、どこか夢のように虚ろだ。こうやってネチネチと厭世を称揚しているから、あんな捨て台詞を言われたのだろう。その言葉自体がポリティカルにコレクトかどうかはさして問題ではないはずだ。ぼくと少なくない時間の、人生を交差させた人間が、ひとことにすべてを凝集した結果があの文章だったわけで、それは尊重されねばならない。だからこそ、ひどく疲れた。
 ぼくの、ただよく動くだけの、贅肉だらけの脳髄は、鋭い言語化なんてできずに無駄な語句ばかり吐き散らす。なにか本当にいいたいひとことの周囲で漂うばかりだ。センスの欠如で、ぼくの怠惰ゆえのものだ。こんなときに、この悲嘆のために誂える言語をぼくは持たない。この貧しさ。
 逃げるようにスマホをつける。Twitterのフォロワーがひとり減っていることに気がついた。ふと思い立った。親指を下側に押し込み、離す。もう一度、そして離す。タップ、離す。……。離す。
 コーヒーはとっくに冷めていた。