夢が漲っていた

 今日は夢を見た。ぼくが何かに何週間も遅刻し続ける、ありえそうな夢で恐ろしかった。

 早く目が覚めてしまったのでフェデリコ・フェリーニの『アマルコルド』を観た。美しいな、と思った。ずっと夢みたいな画面が続いていた。かつて『ひぐらしのなく頃に』を目にしたとき、田園風景に憧れた。ぼくは割と都会で生まれ育っているので、自然とか、近所とか町とか、そういうものとは隔絶されたところで息をしてきた。個人主義はぼくの旨とするところだけども、『アマルコルド』には美麗な関係性が映り続けていた。きっとあの町の少年たちの多くが町で働いて家族を作るんだろうな、という期待感があった。ぼくみたいな人間にとってそういう密で豊かな関係性は息苦しいんだろうし、そういう人たちは捨象されているんだろう。きっとぼくがあそこの住人だったら、都会に出て行きたくて仕方ないんだろう。でも傍から見ると憧れてしまうような、微笑ましさに満ち満ちた空間だ。閉じた系の美しさが漂っていた。

 AMARCORDという題には「私は覚えている」という意味があるという。フェリーニの記憶の再現、というようなことなのかもしれない。それにはすごく納得できて、ずっと流れていたどこか夢のようなムードは、記憶を巡る旅だったからなのかもしれない。透徹な空気感ではなく、柔らかく、何か暖かいものに満たされたような空気や空間は、夢や記憶という、なめらかなベールに包まれた映像を想起させ続けた。

 綿毛が飛んできて、そして季節が巡っていく。変わらないと思っていたものが変わり、少年は大人になっていく。ぼくもその循環に組み込まれるのだろうか。その規則正しさは、フェリーニの「記憶」の中に過ぎ去ってしまったものではないか。少年の母は「(若者の恋愛は)今ではなんでもありだが、自分の時は違った」と懐かしんだ。少年はぼくの曽祖父くらいの年齢だろう。彼らが組み込まれていた幸福のシステムは、きっともう存在しない。人々の暮らしと関係が根付いた町に住むことはないだろう。だからこそ、ぼくたちはフェリーニの記憶を頼りにしていくしかないのかもしれない。