『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』二次創作としての擬似論文「自動手記人形—ドール—の産婆的機能についての哲学的一考察」

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズを全て観て、大変良かったので二次創作をやりました。アニメしか観ておらず、原作未読などで適当書いてるかもしれません。細かい設定らへんは想像です。二次創作ですが小説とかではなく、論文です。あの世界の学者が書いたというテイです。

 では、ご査収ください。

 

 

 

「自動手記人形—ドール—の産婆的機能についての哲学的一考察」

『ライデンシャフトリヒ大学哲学紀要』44巻より

著:ミシェル・ゴルチエ(ライデンシャフトリヒ大学哲学科教授)

著者近影

 

  我らが日常生活に不可欠なコミュニケーション媒体--手紙! 私たちが手紙を書く目的はさまざまである。友人へ近況を知らせる、恋人へ愛を伝える、親類へ感謝を伝える、等々。これらは日常でのささやかなものから、形式ばったものからと多岐に渡って書かれ、読まれる。もちろん、普段の口語におけるちょっとした書き物であれば、雑貨店にて便箋とインクを求め、ランプに照らされた机上でペンを走らせさえすればよい。しかし、正式な手紙であったり、表現に凝った手紙を出したいときに人々は何を用いるだろうか。自動手記人形(一般的にドールと呼ばれており、ここからはそれに準拠する)である。

 自動手記人形は修辞学とタイプライターの使い手である。彼女らが用いるタイプライターは、印刷史にその名を轟かせるオーランド博士が盲目の妻に捧げたものである。ここからして、この論文が行き着く先である言葉の音声的問題が暗示されていると言えよう。

 さて、私がこの短い論文で提出したい疑問は「ドールは何を代筆しているのか」ということにほかならない。高等教育の普及率が10数%であり、先の大戦の影響もあってその半分程度が軍学校へと流れてしまったいま、幼少より文筆の訓練を施される貴族以外は、ほとんど修辞学を使用できない。

 修辞学は文を構成し、美麗なものへとする方法であり、我が国のみならず、大陸では古くより正式な手紙は修辞を用いた文であるべきとされている。ドールの精神史は古く、タイプライターの登場以後に「自動手記人形」という名前が与えられたが、実際には「代筆業」は非常に古くからあるものである。かつては知識人や貴族の子弟が小遣い稼ぎにやっていたが、いつしか職業として認知された。ドールはその延長である。我が国の識字率は低くはないが、しかし「書く」という動作は非常に困難である。私たちの意識は言葉によって構成されていることは何人かの哲学者に指摘されているが、話すことはできても、それを筆記する--つまり、限られた紙幅に要約して構成する--ことの困難は論を俟たない。それでも日常程度の書き方はできるが、正式な手紙となると、様々な決まりを学ばねばならない。そのような形式的困難はもとより、私たちは本当に思ったことを書けるのだろうか? 会話は相手がいるので気持ちは「引き出される」。しかし、手紙を書く孤独な作業は、自分の思いを自分で引き出す必要に迫られる。思うに、ドールはこの「引き出す」作業のプロフェッショナルである。あのガルダリクの神経学者が、精神分析なる方法を編み出したわけだが、これもまた会話によって精神病者を回復させる試みであるという。これは、ドールの仕事と近似していると指摘しておこう。

 我が国最大の郵便社であるC.H郵便社の専属ドール、ヴァイオレット・エヴァーガーデン嬢は、先だっての海への讃歌起草者に選定されたが、彼女の評判は止まるところを知らない。曰く「真の気持ちを引き出された」とのことである。彼女はドロッセル王国とフリューゲル王国のシャルロッテ姫とダミアン王子の公開恋文を手がけた際、シャルロッテ姫に口語での筆記をするよう勧めた。ダミアン王子側のドールであった同社カトレア・ボードレール嬢と通じ、彼女が担当したダミアン王子にも交互筆記を勧めさせ見事婚姻を成功させた。その形式ばらない「本音」の恋文が我々民間の心を躍らせたのは記憶に新しい。この現象は、一見すると、姫の本音によって書かれたものであり、現代において修辞学の不必要さを示した例であると、反知性主義者による投書があったようだが、これは例外的なものだとはっきりと示しておきたい。また、ここにおいてドールの今後について心配する声もあるが、これもまた心配ないことを明記しておく。特にドールについては「姫に本音を書かせた」その手法こそがドールのドールたり得る所であり、明け透けに言ってしまうのならば、筆記作業そのものはさして問題ではないのである。

 私の大胆な告発--ドールの筆記不要性--は各郵便社から反発を受けることが予想される。しかし私はドールの価値を貶めたいのではない。先刻の電話機の発明は、ドールと郵便社の今後を占う画期的かつ危機的な出来事であるとの認識を広まっている。ドールはかの装置の発明後においても、素晴らしき聴き手としての未来が確約されていると私は確信する。この論文の目的は、ドールの世界的な位置を「書き手」ではなく「聴き手」へと転回させることである。念の為明記しておけば、ドールは客の発声をそのまま書き取る「自動手記人形」ではない。客の声を伝ってその身体に遡り、そしてその言葉を発した自我=感情にまで到達し、秘められたものを聴き出す。最終的に発せられる言葉はおそらく断片的なものだろう。ばらばらとした感情のかけらを、彼女たちはその指先で縫い合わせる。やがて紡がれる文章は、客の思いを、その口よりも雄弁に語るものであるはずだ。近年、ドール出身の小説家や劇作家が見られるが、彼女らの書き手として優れている理由は、ドールの「聴き手」性に依拠するのである。つまりそれは、客の聴き手であり、意識の聴き手でもある。彼女たちは、意識のささやきを逃さない。我らが思い、考える上で逃してしまう多くのことを、ドールは捕まえて筆記するのである。自己対話にもその能力は十全に発揮されよう。かの哲学者が自我を発見して以来、我々はさも自我や意識を明晰に感じられると信じているが、当然その認識なさは誤りである。自我-意識についての大いなる錯誤である。恋の相手を前にした、口下手な青年を思い描いてみるとよい! その思いは十全に伝わるのだろうか。そのためのドールである。我らが口頭から発される音声が、相手の耳朶に直接「配送」される時代が訪れようとも、ドールは私たちの思いを引き出す、いわば産婆的な存在として社会に求められるだろう。産婆術とでも名付けられる、彼女らの聴き手としての能力はここに書き留められ、名指されるのである。