ぼくもそう思っていました

 ダ・ヴィンチ・恐山のnoteに課金した(初月無料期間だけど)。やや高めの黒烏龍茶プランの方にしたのだけど、その表記を見た瞬間「黒烏龍茶欲しかったんだよなあ」と「思い出した」。

 実際、ぼくはお茶のなかでは烏龍茶が1番好きなので、近所の中国人街なら安く大量に買えるんじゃないかと黒烏龍茶を買いに行こうと画策した時期がある。結局めんどくなっちゃって行ってないんだけど、「黒烏龍茶プラン」を見て、過去の自分の思考を思い出し、買いに行こうかな、と思った。

 でも、これが自分から「思い出した」って言えるのか不安になってきた。

 それこそ恐山がオモコロchの動画(恐山の3択クイズ)で「自分の記憶だと思って話したが、ふと思い返すとネットで見た他人のエピソードだったかも」と不安に駆られている*1。こういうことがすごくある。ネットで「個人の感想」に触れすぎると自分の考えなのか誰かの考えなのか区別がつかなくなる感覚が訪れる。得意げに話したことが、思い出すと他のひとの意見だったりすることが多い。自分の意見、というのは存在するんだろうか。

 人文系の勉強をしていたりすると、他のひとの言葉や調査を引用して根拠にするものだから、自分の思考がどこにあるかわからなくなる。例えばネットで「低学歴で低賃金なのは自己責任」という意見を見たら「でも環境によってハビトゥスが違うから階級は固定されがちだよね」と思うだろう。でもこれはぼくの意見というより、ブルデューの意見だ。自分の思考回路が、借りてきた言葉でいっぱいになっている。

 ちゃんと思考するために他のひとの肩の上に立とうとしたつもりが、肩に埋もれている感じ。まあ、少しずつ脱そうとしてちゃんとブログを書こうとしているんですが。

 

 しかし「常識とはn歳までに揃えた偏見のコレクションのことを呼ぶ」みたいな言葉は嫌いだったのだけれど、そういうことなんだろうか。

 

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